敬称略で書きます。

1.新井素子は「アニメ的特性」を「確信犯的に小説の中に持ち込」んではいなかった

サイトの方にも書きましたが、大塚が自説の根拠とした新聞記事(実際は『あたしの中の……』の星新一解説からの孫引き)の新井の談話

「マンガ『ルパン三世』の活字版を書きたかったんです」

は記者の曲解に基づいて書かれたものでした。
同人誌『トラルファマドール』第2号の新井素子インタビューによれば、当時書いていた別の小説について、『ルパン三世』のように

「ああいうふうなかなりコミカルタッチのトントントンとテンポ軽快にいくような」(『トラルファマドール』第2号、P3-4)

お話を書きたかった、と語ったつもりが、うまく伝わらなかったようです。ですから「マンガ『ルパン三世』の活字版を書きたかったんです」という言葉は、新井の真意を反映しない形で新井の言葉として世に出たものでした。元々が架空の言葉だった訳です。
大塚が新井素子論を語った『サブカルチャー文学論』所収の「キャラクター小説の起源、起源のキャラクター小説」において、『ルパン三世』の談話が登場します。
大塚は初めて『あたしの中の……』を読んだ時に、

「何だかアニメを小説で読んでいるみたいだ」(『サブカルチャー文学論』文庫版P.434)

との印象を受けたと語ります。そこから「あたしの中の……」に見られる身体性について、

「アニメのそれに最も近い」(同書P.442)

と話を進めた上で、新聞記事の新井の談話を引用して、

「つまり、登場人物の内面と身体における平面性というアニメ的特性(略)は新井素子によって確信犯的に小説の中に持ち込まれた、といえる」(同書P.442-443)

と結論づけました。この認識を元に大塚は新井を、”自然主義的リアリズムとは別のリアリズム”を小説に持ち込んだ作家として日本文学史上に位置づけようとします。
しかし、大塚の個人的な印象に裏付けを与えてくれた筈のその言葉は、架空の言葉でした。事実でないものは議論の根拠とはなり得ません。故にこの結論は成り立ちません。新井素子は「アニメ的特性」を「確信犯的に小説の中に持ち込」んだりはしていなかったのです。
大塚が『サブカルチャー文学論』、『キャラクター小説の作り方』、『物語の体操』において、「『ルパン三世』の活字版」の話を引いて展開した議論は、全て無効だと思います。

2.大塚が「あたしの中の……」に見出した自然主義とは別のリアリズムとは要するに「SF性」?

もう一つ、この「キャラクター小説の起源、起源のキャラクター小説」への違和感について。
本文中で栗本薫江戸川乱歩賞受賞作『ぼくらの時代』に言及した際には、ミステリというジャンルのリアリティについての考察が行われるのですが、「あたしの中の……」に対してはSFの賞を受賞した作品であることには触れているものの、SFというジャンルのリアリティについての考察は、なぜか行われておりません。
『岩波国語辞典』第6版の「SF」の項目にはこう書いてあります。
「科学が進んだ未来の社会とか宇宙とかを舞台とする、空想的な小説。空想科学小説。」
定義としては諸説ありますが、大雑把に言えば空想小説です。科学が絡まなくても不思議な物語はSFに分類されることもあります。*1
新井は元からSF作家志望であり、「あたしの中の……」は第1回奇想天外SF新人賞の佳作受賞作として、つまり「ジャンルSF」の小説として世に出ました。その時点では若年読者を対象とする少女小説や「ジュニアノベルズ」(同書P.436)とは見なされておらず、高校生の書いた純然たるSF作品と認識された筈です。
大塚は「あたしの中の……」の特徴として、記憶を失った主人公が自問自答した際に、

「私とは誰であるか、という近代小説的な問いがわずか数行で片をつけられてしまう」(同書P.436)

と述べますが、それはこの作品が「私」を巡る「近代小説的」なテーマを扱う小説ではなく、エンターテインメントなSF作品だから、ではないでしょうか。話の進行上、行われない方がむしろ自然ですし、いきなりそんな展開になったらSFの新人賞で佳作を受賞することができたかどうかすら疑問です。
更に、主人公が29回も事故に遭いながら驚異的な治癒力ですぐに回復してしまう人物として描かれることについて、

「それはあくまでもSF的な設定として主人公に付与されたものであり、同時にこれはミッキー・マウスが崖から落ちて次のシーンでは包帯に松葉杖で登場するが、更に次のシーンでは元の姿で駆け回っている、というまんがやアニメの基調にある身体性と一致する」(同書P.440−441)

と、「SF的な設定」と言及しつつ、そのSF的特性(空想的な発想)を、まんがやアニメの身体性と言い換えてしまいます。SFだから、という理由で了解できる話がそのSF的特性についてなんの分析もないまま「記号的リアリズム」(同書P.441)の話へとすり替えられてしまうのです。
こうして見ると大塚が「あたしの中の……」の中に見出した”自然主義的リアリズムとは別のリアリズム”とは、実は「SF的」なるものだったのではないか、とさえ思えてきます。大塚がなぜそれを深く考察しないままに話を進めるのか、というのに格別の違和感を覚えます。
ちなみに、大塚は著書『キャラスター小説の作り方』の中で、SFについてこう語っています。

「そして描写が現実を逸脱したときには「考証」といって、それが成立可能なロジックを現実の論理の延長で考えていく手法をとります。いわゆるSF小説もその意味では「自然主義」的なのです。」(講談社現代新書版P.22)

その言葉に従えば、SFのロジックに則った「あたしの中の……」も大塚の言う意味での「自然主義」的な小説になってしまうのではないでしょうか。

3.新井素子が自身の文体に言及した資料

参考までに、新井が自分の文体について言及している資料を挙げておきます。

『若者たちの神々 PART1』
http://motoken.na.coocan.jp/works/book/taidan/kamigami.html
中学生の時にまんがよりも早く読める文体を作ろうという動機からあの文体ができたと語っておられます。
筑紫哲也の「自分ではあの文章とマンガの関係を意識していますか。マンガ的な表現をしようとしているのかしら」という問いに、動機だけでそれ以降はマンガについてはほとんど考えたことがない、と答えています。

『オヨヨ島の冒険』(小林信彦)の巻末解説
http://motoken.na.coocan.jp/works/book/kaisetu/oyoyo.html
小林の文体を「聴覚的」と表現し、その影響を語っています。
(現在、角川文庫版『オヨヨ島の冒険』が紀伊國屋書店限定で復刊されまして、紀伊國屋書店なら入手可能です)

→【関連】新井素子関連文献|小林信彦
 http://motoken.na.coocan.jp/kanren/novel/kobayasi.html

メフィスト 2011 VOL.1』
http://motoken.na.coocan.jp/tojo/magazine/zadankai/mpst1101.html
座談会の中で、新井素子さんが「私は頭の中に映像を描いて書いたことは一度もない」と語っていた、という話が出てきます。

4.揚げ足取り

あと、上記の内容とは関係ないただの揚げ足取りですが。
サブカルチャー文学論』文庫版P.433で大塚がデビューしたばかりの新井素子さんと偶然遭遇した、という逸話が思わせぶりに書かれていますが、その中に事実誤認があるようです。10年以上前にこの日記に書きました。

素研管理人の雑録|制服というと。(2005-01-17)
http://d.hatena.ne.jp/akapon/20050117#p2

素研管理人の雑録|井草高校には制服も標準服もなかった。(2005-01-21)
http://d.hatena.ne.jp/akapon/20050121#p2

また、事実誤認とまでは言えないかも知れませんが、『サブカルチャー文学論』にはこれは見当外れではないかという箇所もあります。
「新井のコメントには「マンガ『ルパン三世』とあるがこれは原作のコミックではなく宮崎駿大塚康生によるアニメ版を指すと思われる。」(文庫版P.442)
宮崎駿大塚康生によるアニメ版」はアニメ『ルパン三世』の第1シリーズのことです。しかし新井のデビューした1977年には既にアニメ第2シリーズ(ルパンが赤い背広を着ている、おそらく一番有名なシリーズ)の放送が始まっており、その第2シリーズの方だと考えるのが自然ではないかと思います。新井の「コミカルタッチのトントントンとテンポ軽快にいく」という言葉も、大人向けだった第1シリーズよりも第2シリーズを形容するのにふさわしいと思います。ただ、第1シリーズは本放送が打ち切りになった後に再放送で人気が出たらしいので、新井素子さんが見ていた可能性は否定できません。

更に話がずれますが、事実誤認と言えば『キャラクター小説の作り方』にこういう文章があるのですが。

鶴田謙二さんの短編にも浜松町辺りを舞台にしてやはりかつての街が水没しているという設定のシリーズがあります。いずれもぼくが大好きな作品です。」(講談社現代新書版P.225)

この鶴田謙二の短編とは『Spirit of Wonder』所収の「広くてすてきな宇宙じゃないか」のことなのですが、舞台は「浜松町」ではなく、静岡県の「浜松市」です。浜松市は鶴田の出身地なのです。
つまり大塚は「浜松町」と「浜松市」を勘違いしている訳です。でも自分で確認したのならこんな勘違いが起こる筈がないと思うんですよね。舞台を「浜松」とだけ誰かから聞いて「浜松町」だと誤認したのではないかと邪推してしまいます。「大好きな作品」と書いておきながらこれはないよなあと、静岡県民の鶴田謙二ファンとしてはなかなか腹立たしい思いをしたものです。(文庫化された際も「浜松町」は修正されていませんでした)
→鶴田作品についての参考ページ:http://www.geocities.jp/msakurakoji/902Comics/105.htm

*1:新井素子は自身を「日本一科学にうといSF作家」と言っていました。『新井素子のサイエンス・オデッセイ』P.248