大塚英志『サブカルチャー文学論』についての些細な突っ込み。
「キャラクター小説の起源、起源のキャラクター小説」の章に於いて新井素子の小説について近代文学史的側面からの考察がなされている。『キャラクター小説の作り方』でもそうだったが、大塚英志は新井素子の登場を非常に重要視しているらしい。帯には「新井素子の先駆性」などという言葉も見られる。その割に、巻末の人名索引に新井素子の名前がないのは不便である。
この章の初出は、「文學界」1999年8月号『「ルパン三世」的リアリズムとキャラクターとしての〈私〉――'80年代小説としての新井素子』。”「ルパン三世」的リアリズム”については本文中P.413から少々長いが引用する。
それに対して既に示唆してきたように新井素子の身体性はアニメのそれに最も近い。アニメはこの段階では少数の例外を除き、「自然主義の夢」を見ていない。アニメが公然と「私小説化」するのは、'79年の『機動戦士ガンダム』に於いてであり、新井素子はそれよりわずかに早く登場している。ぼくは『あたしの中の…』の読後感をアニメのようだと感じた、と記したが集英社コバルト文庫版の星新一の解説によれば新井素子は新聞紙上で「マンガ『ルパン三世』の活字版を書きたかったんです。SFとか小説を書いているという意識もなくて、楽しんで書いた」とコメントしているという。つまり、登場人物の内面と身体に於ける平面性というアニメ的特性(新井のコメントには「マンガ『ルパン三世』」とあるがこれは原作のコミックではなく宮崎駿と大塚康生によるアニメ版を指すと思われる。この時点でジャーナリズムは「アニメ」と「マンガ」なる語の使い方に全く慎重ではなかった)は新井素子によって確信犯的に小説の中に持ち込まれた、といえる。
『キャラクター小説の作り方』にも”「『ルパン三世』」の活字版”という件は登場しているのだが、星新一の解説からの又聞きだったのには軽い失望を覚えた。原典に当たってた訳じゃなかったのか。それじゃどんな文脈で話されたのか判らないじゃないか。ちなみに、この新井素子の発言が掲載されたのは「毎日新聞」1978年1月22日のことである。朝刊か夕刊かは未確認のため判らない。おっと、俺も又聞きだ。*1
新井素子がマンガのように読みやすい小説を目指していたというのは割と有名な話で、大塚英志がこの記事だけを根拠にアニメにこんなにこだわるのは何故なんだろうか? ちょっと牽強付会な印象を受ける。
ついでに、この記事に出てくる「ルパン三世」を大塚英志はアニメ版第1シリーズと推定しているようだが、もしアニメ版だとすれば1977年に放送が始まった第2シリーズの方じゃないかと思う。第1シリーズって大人向けで内容も暗かったし、子供がこの番組のノリをわざわざ小説に持ち込みたくなるかな〜? と疑問に思うんだがどうか。
この時点で新井素子が新ルパンを見ていても何の不思議もない。新シリーズが始まっているのにわざわざ何年も前のシリーズの話題を出すのも不自然だし、なにより明るく楽しい新ルパンの方が女子高生の口から出るに相応しいんじゃないかと推測してみるものである。
- 『サブカルチャー文学論』,大塚英志,朝日新聞社,ISBN:4022578939
- 『キャラクター小説の作り方』,大塚英志,講談社現代新書,ISBN:4061496468