初めての新井素子。
新井素子の小説を初めて読んだ時のことを思い返してみる。
初めて読んだのはコバルトの『いつか猫になる日まで』だった。中学1年の時である。
しかし、
1)斬新な文体だ!
とか、
2)女の子の話し言葉そのままだ!
というようなことは全く思わなかった。
1)についてはそんな衝撃を受けることもなく、普通の小説と同じようにするっと読んだ。新井素子の文体が小説としてはある意味特殊であるというのは後づけで知った。俺の読書量が絶対的に足りなくて小説文体についての認識が浅かったからかもしれない。
衝撃というなら、文体よりもむしろ内容であった。登場人物はひたすら自己肯定的で前向きなのに、あの虚無的な終わり方。読み終わった後しばらく呆然としてしまったのを覚えている。中学時代の読書としては『百億の昼と千億の夜』にならぶ強烈な体験であった。あの時の衝撃がいまだに新井素子を読む原動力になっているような気がする。
2)について言えば、俺の中学であんな風に話してる女子は一人もいなかったと断言できる。なぜなら彼女らが話しているのは標準語でなく遠州弁だったからである。地方の人間にとっては標準語というのは「よそ行き」の言葉である。大塚英志が体験した「語り口がつい今しがた嬌声を上げていた女の子たちのそれと全く同じ」などということは、標準語を話さない場所ではそもそもありえない。結局現代の文語体で書かれた全ての小説と同じように相対化されてしまうのである。少なくとも俺はそうだった。
で、疑問に思うのはあの文体を話し言葉と同一視できる人たちというのはどの辺に住んでいるどれくらいの年齢層の人たちだったんだろうか、ということである。とりあえず1978年の高田馬場に於ける大学二年の大塚英志がそうだったのは判った。あとは?