新井素子インタビューより文体についての箇所。

SFの本』第9号、P4より。聞き手は川崎賢子

川崎 そうですか。今の文体というのは十五、六くらいのときに練習したっていうのがどこかに書いてありましたが。
新井 ええ、十三のときにだいたい今の文体の原型みたいなものをつくって、十六くらいのときにはそれで好きなように書けるようになっていたから……。
川崎 それは何かモデルとかあるんですか。
新井 はやく読める文章をつくりたいと思ったんです。たとえば一冊の漫画と一冊の小説をいっしょに読みはじめると、読みおえるのは圧倒的に漫画のほうが早いじゃない。少しでもそれに近いくらい速く読めるような文章をつくりたいと思ったんです。
川崎 どんな練習をしたんですか?
新井 練習っていうのではなくて、どういうのがはやく読めるだろうかって考えたんです。で、自分が、こうだったらはやく読めるんじゃないかなっていう文章を書いていったら、どうも倒置とか体言止めとかがやたら多くなっていって、センテンスがどんどん短くなってって、あ、これは日頃しゃべっている言葉に近くなればなるほど読むのが速いのではなかろうかと思ったんです。で、最初は本当にしゃべっているように書いていたんですが、センテンスが逆にのびてきちゃうんですよね。だからしゃべってるそのままじゃだめなんだなと思って、いかにもしゃべってるそのままのように見えて、実はしゃべっている言葉とは全然違う文章というのをめざしたんです。それがあれなの。

この間から新井素子の自分の文体に関する発言を拾おうとしているのは、大塚英志の見解に対する自分自身の違和感を検証したいと思ったからである。

マンガではなくアニメを強調するのは、 そうしないと彼の論旨がぶれる、もしくはおかしくなるからでしょう。

【引用】ただ、風のために。「『サブカルチャー文学論』とマンガ」

「それに対して既に示唆してきたように新井素子の身体性はアニメのそれに最も近い」(P.413)とか、「彼女は小説が程度の差こそあれ現実の中に存在するものを「写生」しようとしてきたのに対して、アニメの画面の中に描かれたものを「写生」しようとしたのである」(P.414)とか、根拠が根拠として作用していない所があるように思うのです。こういう本は読み慣れていなくて難しいです。僕もまだキャラクター小説の章しか読んでいないので、そのうちに最初から読んでみようと思います。