高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』。

読了。単行本版の帯には「超おもしろポップな地上最強の文芸評論集」とある。所収の「ラカンのぬいぐるみ」というエッセイに『ぬいぐるみさんとの暮らし方』からの引用と『くますけと一緒に』の批評があり、「少女小説」の文体についての考察に新井素子が登場する。初出は1991年の朝日新聞文芸時評」。日付は書いてない。単行本版のP.154より引用する。

 ネイプの翻訳もしている新井素子の新作『くますけと一緒に』(大陸書房)を読みながら、ぼくはいろいろなことを考えました。それは、あえてまとめていうなら「少女小説はどこへたどり着くのか」ということです。現在の少女小説は六〇年代半ば、ラジオ深夜放送のDJと聴取者のコミュニケーションの道具となった「新口語文」にその起源が求められます。当時、その「新口語文」の主役を担っていたのは高校の男子生徒でしたが、それが文学の形をとることはなかったのです。やがて、「新口語文」の主役は女子生徒に移っていき、一九七七年新井素子の登場によって、現在に続く少女小説が誕生する――という流れを持つ「少女小説」は、ぼくの考えでは、いま四つの方向に分裂しています。

挙がっている方向性をまとめると次の通り。

  1. 新井素子によって導入された「新口語文」を規範として更に洗練させていくやり方。
    • 花井愛子、折原みと、倉橋耀子。多数派。少女のマーケットだけを流通。
  2. 「新口語文」をベースにして新しい言文一致体を探る試み。
  3. 「新口語文」や「少女小説」の枠を越えてしまうやり方。
  4. 「文学」がすくいとることができなかった日本に於けるある年代のことばの反映である「新口語文」とジャック・ラカンを対話させ、既存の「文学」周辺のことばとは違う新しい方向性を引き出す。

4.に関しては俺のまとめ方が間違っているとは思わないが、正直自分でも何を書いているのかよく判らない。「文学」の言葉はよく知らないのである。そちらの素養が無いもので。高橋源一郎は初めて読んだし、ジャック・ラカンについても何も知らない。エッセイの内容を解釈するのに時間がかかった。