『S-Fマガジン』2004年9月号。

日下三蔵の連載エッセイ「日本SF全集[第三期]」は『第一巻 新井素子』の第二回である。7月号の第一回*1では全集に収録する短編作品を日下氏が選んだ。今号は長編作品の番である。選出されたのは下記の二編。

他に最新SF『チグリスとユーフラテス』は長すぎて収録できないため、代わりに外伝である短編「馬場さゆり」を収録するとのこと。これにて選考終了である。
『ラビリンス――迷宮――』と「馬場さゆり」は正直な処かなり意外だった*2。それは個人の選択だから文句を付ける筋合いではない。しかし日下氏の記述には「おや?」と思った。『ラビリンス――迷宮――』についてこのように書かれている。

 本書には、この系統(*3)を代表して4を収めた。新井作品の中でも、前述の「論理性」が最も強く現れた傑作である。六年に一度、巨大な迷宮に住む〈神〉に生贄を捧げなければならない村で、その役に選ばれた二人の少女。二人は迷宮の中で異形の〈神〉と対話しながら、なぜ迷宮がそこにあるのか、なぜ生贄を必要としたのか、そしてなぜこのような世界ができたのか、なぜ生贄を必要としたのか、そしてなぜこのような世界ができたのか――という「世界の真実」に理詰めで迫っていく。著者はこの作品で、異世界ファンタジーでありながら本格SFという離れ業を成功させているのだ。

文中「4」は『ラビリンス――迷宮――』のこと。「論理性」は正確には「ストーリーの論理性」と文中に書かれている。”論理的な思考をする登場人物たちにより理詰めで進んでいくストーリー展開”(要約)という説明がなされており、これを新井素子作品の特長の一つとして日下氏は挙げている。それには全く異論はないのだが、「論理性」が最も強く現れた傑作である、という件以下に違和感を覚える。問題はこの作品がテーマ的にもストーリー的にも全くそういう話ではないことだ。人間は遙かな昔どのような暮らしを営んでいたか、その人間がなぜ今のような有様になったのか、という歴史は、作中では神の講義によりゆがんだ形で少女の一人、トゥードに伝えられる訳で、世界についての謎解きは物語の主題ではない。迷宮に閉じこめられた神と、迷宮に送り込まれた二人の少女がそれぞれ迷い込んだ思考の袋小路――迷宮――がこの小説のストーリーの骨子であり主題でもある筈だ。日下氏はストーリーについて何か誤解しているのではないか? この作品を選んだ説明にはいまいち納得が行かない。
それから、他の部分での事実誤認を指摘しておきたい。日下氏による『・・・・・絶句』についての説明である。

 5と6はユーモアたっぷりのSFコメディ。特に千二百枚におよぶ大長編の6は、SF作家・新井素子の小説のキャラクターが実体化し、作者自身を巻き込んで大騒動になる、というメタフィクションなのだが、大量のキャラクターを見事に捌いて、ストーリーにまったく乱れがないのがすごい。

文中の「5」は『二分割幽霊奇譚』、「6」は『・・・・・絶句』のこと。主人公は「SF作家・新井素子」ではなく「SF作家志望の女子大生・新井素子」である。実作者・新井素子とキャラクター・新井素子を混同してはいけない。

*1:「S-Fマガジン」2004年7月号。 - 雑録

*2:俺の個人的セレクトはこちらを参照→『日本SF全集』に収録する新井素子の長編は? - 雑録

*3:引用者註:異世界を舞台にした『扉を開けて』、『ラビリンス――迷宮――』、『ディアナ・ディア・ディアス』の三作のこと。