大塚英志『サブカルチャー文学論』。

一応読み終わったが読めていないことには自信がある。ってか威張ることじゃないけど。むしろ恥じれ。
全部読んだが、この本に新井素子さんが登場している意味がやはり判然としない。「キャラクター小説」てのは新井素子さんを持ち出すまでもなく、SFとか大衆娯楽小説で連綿と続いてきた形式だろう。新井素子さんはもともとSF読みで、物語作家指向であるし、創作に当たって先行する作品と形式を踏襲しただけなんではないか*1。本文中ではこのような新井素子さんの出自は全く問題とされず(他の作家はしつこいくらい問題にするのに)、アニメと漫画を見て育った小説家が突如として出現したかのような扱いで、バックボーンとしての漫画・アニメが強調されるばかりである。
大塚が新井素子さんのことを「村上春樹田中康夫高橋源一郎らと同時代の作家としてやはり「文学」の歴史の中に加えられてしかるべきだ」と主張するのに反対はしないが、本文中に書かれている論拠だけからここまで大げさなことを言うのは少し無理があるように思う。なにしろ、「あたしの中の……」と「ずれ」の短編二編と、「あたしの中の……」を読んだ大塚自身の感想と、毎日新聞の記事中にある新井素子さんの発言一言と、それだけしか論拠としては提出されていないのだ。なのに、なぜ大塚がここまで新井素子さんを持ち上げるのかが読んでいて腑に落ちない。他の純文学作家に対する当て馬として使っているだけのような印象をも受ける。
この本での新井素子さんの取り扱われ方については色々と思うことがあるので、『物語の体操』を読み終わった後に気が向いたら書いてみるかも知れない。今まで小出しで書いてきたことをまとめてみたいと思っている。
とりあえず、巻末の人名索引に何故か新井素子さんの名前がないので*2、登場ページを記しておく。

  • P.404-406,410-414,418,420,422-427

*1:例えば、自分が記憶喪失であることが判っても少しも慌てないのは、不思議の国に紛れ込んでも少しも慌てないアリスを主人公とする『不思議の国のアリス』のような先行作品があり、これを新井素子さんも読んでいる。ましてや書いてるのがSFだしね。

*2:本筋に全く関係ない天龍源一郎の名前はあるのになあ。