渡部直己『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』。

読了。高橋氏から教えて頂いた本である。たまたま図書館にあったので、初級編は読まないまま中級編を読んでみた。
一読して私怨と自己賛美と独断に満ちたトンデモ領域の本のように思われるのだが、それはたぶん俺が漱石をほとんど読んでいなかったり文学的な素養がなかったり別に作家になりたいとは思ってなかったりするからなのだろう。全体のほぼ75%に渡り夏目漱石の小説中でどのような文章上の技巧が使われているかを分析、解説した内容で、初級者編をクリアした人にはテクニックのカタログとして使えるようになっている、と思われる。
その「第二章 テクニック編」は全十五講から成り、一講ごとに現代作家の小説から抜粋した文章を「対照悪例」として掲載している。「第七講 伏線の張り方」では新井素子さんの『グリーン・レクイエム』が悪例として取り上げている。文庫版P.7-L.7〜P.8-L.1、P.8-L.10〜P.9-L.2の部分である。その解説がイヤンな感じなので、P.153,154から全文引用してみる。

作品冒頭に読まれる右のくだりはとりあえず、ある人物をその謎めいた行動なり仕草とともに提示し、それをかつ、物語の大切な伏線と成す漱石例Iと同じ体裁はとっている。すなわち、やがて主人公と悲しい恋をするこの娘は、地球上の植物と「同胞」の異星人で、彼女の「一メートル以内の処に、一時間以上おかれた時」、植物たちは、その謎のエネルギーに「感染」し人類に敵対する意志と力を持つのだという。その彼女がこの冒頭では、周囲の植物を目覚めさせぬ距離と時間内で日光浴ならぬ「光合成」を行っていることが、ずっと”後に”(原文傍点)物語の結末近くで”一挙に”(原文傍点)知らされれば、平凡ではあれまあ大過もないのだが、作者はこれらを何故か”そそくさ”(原文傍点)とバラしてしまうのだから他愛ない。たとえば、かつて「深い緑の髪」をもった彼女とそっくりな幼い少女との出会いの回想場面は、すぐこの後に続けられ、「光合成」なるキーワードも、次の「2」章で(しかも、わざわざこの娘の方へ焦点を移動して)娘自身の口から読者に伝えてしまうのである。すべてがそんな調子なのだから、せっかくの伏線があっというまにパーになり、肝心の謎が、謎の求心力を速やかに失ってしまう一遍には、従って当然、伏線の奏功に不可欠の捨てカットもまた皆無である。お手元に当該作品があるのなら、あるいはむしろ、言葉のもっとも単純な意味で、全編これ「捨てカット」とでもいうべき作柄の、その手応えのなさをつくづくと吟味されたい。

困惑した。著者の渡部なる人物がどうしてそんなに「光合成」に拘るのかが判らない。物語全体から見れば「光合成」ってのは最後まで引っぱるほどの重要なネタではない。ショートショートのようなワンアイデアストーリーならまだしも、この程度のネタを「大切な伏線」とか言ってるってことは、もしかして著者はSFを読まない人なのかも知れない。
物語中では、「帰りたい」という明日香の母親の強い想いとそれに捕らわれてしまった明日香の姿、そしてこの世界とは相容れない異物であることの明日香の苦悩が描かれており、明日香が異星人であるという設定はその前提となる。だから小説中では早めに明かされるのである。物語上でこの設定を謎とする必然性はない。全編これ「捨てカット」と読んでしまったのは、小説の技巧に拘泥するあまり著者が犯した単純な間違いに過ぎない。伏線とは言うまでもなく物語を成立させるための技巧であって、伏線を成立させるために物語があるのではない。しかしここで行われているのはそうした本末転倒な読み替えである。
他の例でもこんな誤読をしているのだろうかという疑念が頭をもたげるのは否めない。『グリーン・レクイエム』の他には例文を読んだことがないので判断のしようもないのだが、気になる処ではある。
初級編の『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』でも新井素子さんの『くますけと一緒に』が例文として使用されているようなので、どこかの図書館で借りてみようと思う。静岡市立中央図書館にあるのはこの目で確認したので、申し込んでみようか。