『IN★POCKET 1985年6月号』。

巻頭特集が「栗本薫ライヴ」。企画として「栗本流気まぐれ文章読本 其之一」というエッセイが掲載されている。部屋を片づけるついでになんとなく読んでいたら文中に新井素子さんの名前が登場してくるのを発見した。文体模写に絡めて各作家の文体の特徴に言及している部分である。P.9-10より。

あんましうまくいかなかったが、池波先生の語法、呼吸、というものは、誰でもマネができるくらい、くっきりしている。文の一片をみても、あ、池波正太郎だ、とわかる。むろん、「切り方」に特徴のある文体といっても宇能鴻一郎さんの切り方とは、はっきりちがう。

「あ。

この人。

あたしの太ももに、手をのばして来た。

あたし。

感じてしまいそう」

というのとは、切り方の呼吸がちがうのである。ところが、宇能さんの切り方と、頓狂なことに、新井素子の切り方はそっくりだ。内容がちがうだけだ。

「あたし、困っちゃう。

だって、こんな。

自分の小説の主人公に、愛してる、といわれるなんて。

あたし。

夢でもみてるのかしら」

ね。似てるべ。といってもこの二つとも、適当に私が作ったんだがね。

宇能鴻一郎文体と新井素子文体の比較に言及した例である。しかし新井素子さんの場合、一人称の主人公はもう少し歯切れのいい印象があるし、これだけの内容を語るにももう少し饒舌になるのではないかと思われる。たった五行でこの情報量の少なさというのはないんではなかろうか。むしろ俺が聞きかじった知識によると新井素子さんの後に出てきた改行を多用する少女小説群(読んだこと無いんだけど)がこれに近いのではないかと思った。
次にP.11より。

このクセというのは、たとえば一人称を「私」にするか「僕」か「ぼく」か「俺」「わたし」「わたくし」「あたし」か、そこからすでにはじまっているのである。私のように、エッセイのときでさえ、ぼく、私、わたくし、小生、などをむちゃくちゃに入れまぜるヌエ的存在は他にはなく、ふつう一人称の小説でもその作家の好きな一人称、というのがある。「あたし」と書けばそれだけで新井素子だし、「ぼく」と書く人は案外に少ない。「僕は何とかで……」と書くと、ナイーブで若い印象がそれだけでできあがる。「ぼく」は少し軟弱度が増す。庄司薫さんかサリンジャーか、という雰囲気は「ぼく」という人称一発で出すことができる。「おれ」にするとたちまち、筒井康隆藤本義一か、である。どちらかというと関西の人に「おれ」をつかう人が多い気がする。この人称というものは全体のトーンをも決めてしまう。

”「あたし」と書けばそれだけで新井素子”という時代だったようである。少なくとも栗本薫はこのように感じていたようだ。この後「あたし」という一人称がどのように浸透と拡散していったのかはよく知らない。
あとこれが知りたいのだが、このエッセイは栗本薫の著書に収録されているのだろうか。適当にググって見ただけではよく判らなかった。