スガ秀実・渡部直己『それでも作家になりたい人のためのガイドブック』。

読了。また読めない本を読んでしまった。新井素子さんの『くますけと一緒に』が本文中に出てくるというので読んでみたのである。まずスガ*1と渡部の対談により構成された第1講義〈心構え編〉の”知らぬ者の強みが作品をつくる”の項P.30-31に名前が登場する。

スガ――それは、読者も何も知らないからなんですよ。宣伝文句として、荻野アンナを「ラブレー的笑い」なんて言いますね。ご本人もラブレーの研究者らしいのですが。すると、読者も「ああなるほど、ラブレーっていうのがいるんだ。これがラブレーか」とラブレーを知らなくても言えるわけ。なにも荻野アンナを読んでラブレーを読むやつなんていないから、誰もとがめやしないのかもしれないけどねえ。

渡部――それが僕の言っている「電通」的な浮薄さね。すごく浅薄に、ラブレーならラブレーの雰囲気を簡単になぞる。それは、逆にラブレーならラブレーのテクストの中にある難しくて余計なものには触れないわけだから、誰にでもわかりやすいイメージとしてる付されるという強みはありますね。

 いまの作家は、いろんなことを知らない分、そうした名作の「電通」的イメージを使うことにかんしては逆に勘はいいんだろうね。新井素子の『くますけと一緒に』なんか、『異邦人』みたいに始まるわけよ。「昨日はお葬式だった。パパとママの」ってね。中途には、西脇順三郎の『Ambarvalia』まで出てきます。あれはきっと、高校の教科書に出ていたんでしょう。余計な知識がない分、あるいはテクストの具体的な過剰に出会わずに済む分、「名作」のイメージというものが彼女たちにとっては新鮮で重宝なんだね。

新井素子の小説『くますけと一緒に』中に他者の著作を想起させる文章がある。それは著者に文学的な素養がないからで、よく知らない物を単にイメージをなぞるためだけに使っている。その恥ずかし気もない態度は却って女性作家の強みである。”
と、以上のような批評が述べられているようである。
本当に共通した「イメージ」が見出されるのか二作品の冒頭を比べてみよう。本文中では『くますけと一緒に』の冒頭二段落が引用されているから、同じように『異邦人』も冒頭の二段落を書き出してみる。下記はそれぞれ『くますけと一緒に』(新潮文庫)、『異邦人』(窪田啓作訳・新潮文庫)より。

 昨日はお葬式だった。

 パパとママの。

 きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。

 「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。おそらく昨日だったのだろう。

文学的な素養がない俺が読むと、一人称の語り手が直近に起きた肉親の死を告白している文章から始まっている、という点が共通しているだけのように思える。別にそう珍しい書き出しでもなさそうに思うのだが、これが直ちに『異邦人』のイメージに結びついてしまう、というのがよく判らない。単にこれだけの共通点で『異邦人』とのイメージの類似にまで気を留めなければならないとしたら批評家とは因果でご苦労さんな商売であると思う。つーか、2ちゃんあたりでよく「××は××のパクリ」と書いてあるレスを見るが、それと同じ基準でものを言っているとしか思えない。文章や物語展開の表層的な類似のみを取り上げて根拠もなく独断を下しているという点が胡散臭いのである*2
この”「電通的」イメージ”の話は本文中でまだ続く。第3講義〈実践編〉の”「書き出し十行読めばわかる」説のウソとホント”の項P.196-197より。

スガ――たとえば、太宰治の書き出しはなかなかカッコがついていたでしょう。でも、その巧さも日本でしか通用しえなかったと思うんです。いまの女性作家の自信の持ち方なんかを見てると、世界に通用すると思っているんじゃないの。吉本ばななが世界的な作家を目指そうと勝手ですけど(笑)、実際そうしたければできる世の中なんですね。

渡部――野郎じゃなくて女郎自大(笑)。ただ、ことの善し悪しはべつとして、吉本ばななの作品というのは、特に日本語で書かれねばならぬ必然性がない点において世界的なのですね。これは蓮實さんの意見ですが、僕も同感です。

 それから書くことと読むことの間にギャップがあるから、小説の言葉はどうしてもインフレになりがちでしょう。書き手が自分が思ったことを読み手に伝えようとすれば、三割がた強い言葉を使わなければダメなんです。書き出しでキメる場合はそうしたほうがいいですね。そのあたりの書き方はさすがに「化粧」なれした女性のほうがしたたかなんですね。男は生真面目なのが多いから……。したがって、作家志望の人は女性作家の冒頭の一行なんかを注意して読んだほうがいいということになる。前述した新井素子などは、ぬけぬけと『異邦人』をパクるわけでしょう。その手のずうずうしさも若い男性は身につけることでしょうね。

「化粧」なれした女性のほうがしたたかという話に続いて、その例であるかのように普段から化粧気の全くない新井素子さんの話が出てくるのもファンとしてはかなりの違和感を持つ部分である。女性とはそういうものだという無批判な思い込みがここにはあるんだろうが、まあそれは置いといて、わざわざ男性と女性を分けて小説作法を語ることに何の意味があるのかよく判らない。これって単に偏見って言わないか? 「パクり」と断言しているその発言の無責任さにもいい加減ウンザリしてくる。対談という形式だからなのか、論拠も無しに思いついたことを話しているだけのように見受けられ発言内容に説得力がまるでない。こうして書いている内に真面目に突っ込むのが却って野暮なんじゃないかという気がしてきた。

この本で新井素子さんが一番大きく取り上げられている箇所は、第2講義〈ブックガイド編〉。読者が参考にすべき事例を様々な小説から抜き出して解説した章で、「9.会話」の項に『くますけと一緒に』が登場して来る。例文は、新潮文庫版のP.227,L.6〜L.12、L.15〜L.17である。擬声語を丸ごと会話に組み込んだ小説が近代文芸技法史上の趨勢に反して若い書き手の内に復活してきており、こうした傾向高橋源一郎思わず「新言文一致」などと名付けてしまった、と渡部が書いている。このことから渡部が高橋の著作『文学じゃないかもしれない症候群』に収録された「ラカンのぬいぐるみ」*3を種本としているんじゃないかと邪推するのだが、そのエッセイを読む限りでは高橋は「新口語文」という言葉をそんな狭い意味では使っていないように思う*4
この解説部分では、要は擬声語を丸ごと会話に組み込んだ文章は手抜き以外の何ものでもない、という偏見に基づいた主張が行われているだけである。元の小説の文体や物語展開を何の考慮にも入れずに自分の主張の論拠となりそうな部分だけを引用するのははっきり言って感心しない。小説を書きたいと考えている初心者の人にとっては「これをやっちゃだめ」というのはもしかしたら有用なアドバイスになるのかも知れないけど、その説明の手口は実に姑息だと感じる。
最後に、第9項末P.157に新井素子さんの紹介文が掲載されているのだが、記述に誤りがあるので指摘しておく。

一九六〇年生まれ。少女時代から作家を志し、高校二年在学中、『あたしの中で……』で第一回奇想天外新人賞の佳作に入選する。フツーの女のコが話すような独特な語り口は、同世代の女子高生に絶大な人気を誇り、後のコバルト文庫系の作家たちにも影響を与えた。また、九二年に発表した『おしまいの日』ではサイコホラーに挑戦し、話題を呼んだ。他の主著に『グリーン・レクイエム』『扉をあけて』。

誤)『あたしの中で……』 → 正)『あたしの中の……
誤)『扉をあけて』 → 正)『扉を開けて』

ちなみにこの本は昨年新版が出たが、ちらっと立ち読みしたところではそちらでは新井素子さんの小説は取り上げていないようである。

*1:漢字が登録されていないのでカタカナで書いている。字は糸偏に圭。

*2:西脇順三郎の『Ambarvalia』はまだ断片しか読んだことがないので、『くますけと一緒に』のどの部分をこの詩の真似だと判断したのかは判らない。確認してみようと思う。

*3:くますけと一緒に』を例にジャック・ラカンの理論を引きながら「新口語文」の発生とその行方を考察することにより現代社会のある断面について言及しようとしたエッセイ。だと思う。

*4:高橋源一郎の著書はこの一冊しか読んだことがないので、俺が見当外れのことを言っている可能性は多分にある。