愛の予感のジュブナイル。

タイトルに意味はない。2004年2月8日の日記で俺は『S-Fマガジン』2003年7月号に掲載された三村美衣のエッセイ「表現とリアリズムの変遷――ライトノベル25年史」の中の記述、

面白いのは、高千穂遙新井素子の両者が折にふれて、自分たちは普通の小説を書いているだけで、ジュヴナイルSFだとかライトノベルとか呼ばれることに戸惑いないし不満を感じるという意味の発言をしていることだ。

この部分に対する違和感について書いた。(関連記事:「S-Fマガジン」2004年10月号。 - 雑録
それを裏付ける資料ではないが、関連することが書いてあるページを見つけたのでメモしておく。大森望の「葛西西狂乱日記2004年4月1日〜4月6日」の4月2日(金)より。

ところで、ライトノベルの第一号は、高千穂遥《クラッシャー・ジョウ》の第一作『連帯惑星ピザンの危機』である――という通説はオレもまちがってないと思うけど、いま読むと書き方は全然ライトノベル的じゃなくて、むしろその後の展開から遡ってライトノベルになったっていう印象。そりゃまあ最初から安彦良和カバーだったけど、あれってどっちかと言えば、斎藤和明の《スターウルフ》とか(ハヤカワ文庫SF)の感じでしょ。文体的にはむしろ同時期に出た新井素子の影響のほうが大きいかも。新井素子はたしかジュブナイルSFをテーマにした星群祭に呼ばれたとき、「わたしはジュブナイルを書いてるつもりは全然なかったのでわかりません」みたいなことをしきりに言ってたけど、その意味では、「同世代に向けて書く」という大森のライトノベル定義を満たしてたわけですね。ただし、アニメやマンガは参照してない。そう考えると、高千穂遥新井素子ライトノベルが誕生したのか。

ジュブナイルを書いてるつもりはない」というのは、同世代の女性に向けて書いている、と折りに触れて書いている新井素子さんの主張と矛盾するものではなく、納得の行く言葉である。
「普通の小説を書いているだけ」であり「ジュヴナイルSFだとかライトノベルとか呼ばれることに戸惑いないし不満」を新井素子さんが折に触れて表明している、という資料はまだ見つかっていない。