友成純一『びっくり王国大作戦』。

読了。あかいくつさんから頂いた本。1987年から1992年まで『キネマ旬報』に連載されたエッセイを大幅に加筆修正して収録したエッセイ集である。
「第3章 びっくり王国の執念」に「扉を開けて――新井素子」というエッセイが収録されている。アニメ版『扉を開けて』を紹介するエッセイなのだが、筆者が新井文体に遭遇した時の驚きから始まってその小説世界がどういったものであるかを分析しており、なかなか読み応えのある作家論となっている。新井素子作品に登場する人類への批判的視点に着目し、新井作品には「ヒューマニズム」(筆者は「人間中心主義」という意味で使用している。)がなく、しばしば登場するグロい表現は表面的なものでなくもっと本質的な感性の部分が尋常でない、と書いているのはスプラッタ作家として名を馳せる友成純一だからこその反応か。
ただ、平井和正による「人類ダメ小説」の世界観を新井素子がそのまま受け継いだ、とことさら強調するのはどうだろう。新井自身は『SFイズム VOL.2』に掲載されたインタビューで次のように語っている。

平井さんの小説、最初に読んだのが中学校の時期だったんで、あの人類ダメ小説というのはかなりどうしようもないショックでした。で、一時期わりとそういうのばっかし書いてて。『あたしの中の…』が比較的その名残りとどめてますよね、あれ。

つまり本人の意識としては作家デビューする前後には既にある程度まで相対化が完了しており、小説のモチーフの一つとして飲み下すことができていたのではないかと考えられるのである。例えば筆者は『ラビリンス――迷宮――』についてこのように書いている。

続くシリーズ第二作「ラビリンス 迷宮」は、東の国の山間が舞台で、神=人間を食う生き物の苦悩と、それに対峙した人間の物語。人類の傲慢さと、人類を含めた生命連鎖の問題が、最も強く押し出された作品である。

確かにそのような問題は物語中に登場してはいる。しかしそれらはこの物語の主題ではないと俺は考える。他者に対する自己の存在について葛藤する神、トゥード、サーラらの精神的背景として描かれているに過ぎないのではないか。その葛藤こそが物語の主題――迷宮――であると思う。新井素子が人類のダメさ加減を踏まえた上でそれでも人類を愛しいと思っている、というのは同感であるが、個々の作品について必要以上に「人類ダメ小説」に関連づけて語らなくてもいいのではないか。読んでいて違和感を覚えた点である。
このエッセイ内ではアニメ版『扉を開けて』について無難な感想が述べられているのだが、他に「第2章 びっくり王国大作戦」の「うる星やつら・完結編」というエッセイでもこのアニメ版について触れている。『うる星やつら』マニアでLD全集まで買ってしまうような筆者は次のように思ったそうである。P.128〜129より。

「うる星'87」も完結編も、監督は押井守でもなければやまざきかずおでもなく、出崎哲という人だった。作画監督は、土器手司でも西島克彦でも森山ゆうじでもなく、四分一節子
二人ともぼくが見た範囲では、〈うる星〉にほとんど関わったことがない。出崎哲の監督作品では、これまでに「グレイ」「扉を開けて」「時の旅人」「11人いる!」を見ているが、正直言って、こちらの心の琴線に触れてこない、全くどうでもよい作品だった。「扉を開けて」の作監四分一節子だったが、思い切り失礼なことを言ってしまうと、なんか古くさい絵だなと思っただけ。