森下一仁『現代SF最前線』。
読了。図書館で借りた。1983年〜1997年の15年間に雑誌や新聞に発表したSF書評を収録した大著。読者をSFの世界へ誘う読書ガイドであるとともに、著者のSF観が反映された評論集としても読める。書評の一つ一つに初出が書いてないのは不満だが、『小説推理』に発表されたものが中心となっているようである。
本の中から新井素子さんに関する記述を抜き出してみる。まず「横田順彌『む』」(P.39-41)の項、P.41より。
今月、ほかに目についたのは、新井素子『二分割幽霊綺譚』(集英社)、大原まり子『機械神アスラ』(早川書房)と、二人の女性作家の書下ろし長編が出ていること。栗本薫、山尾悠子、鈴木いづみらと合わせると、日本の女性SF作家も層が厚くなりつつある。できれば、もっと年齢の高い書き手が出てくると面白いように思うが、日本でのSFの歴史がまだまだ浅いことを考えると、無理なのでしょうねえ。
『二分割幽霊綺譚』が集英社刊と書いてあるのは間違いで、正しくは講談社から刊行された。この作品はP.64-65で単独で紹介されている。
今春大学を卒業した新井素子の十冊目の著書。若くして小説を発表したりすると「早熟の天才」といったような形容詞を冠したくなるが、この人の場合は似合わない。
「早熟」という点がひっかかるわけで、一般に通用している小説のレベルに達したものを書けるのが熟した才能というならば、この人は成熟とは無関係なところにいるように思える。一応、SFとかファンタジーといわれるものを書いているのだが、それよりもふさわしい呼びかたは、おはなし――平仮名でこう書く読み物だろう。
このおはなしの主人公は二十一歳の大学生。女性なのだが仮性半陰陽のためずっと男の子として育ち、中学二年で本来の性が明らかになった。以来、転校して以前の仲間とは離別、新しい友人も作らず学校で暗い絵ばかり描いている。この主人公の出会うのが、一見十六歳、実はとうに三百歳ををこえた少女吸血鬼。モグラから女王様と呼ばれる女のせいで幽霊となり、右半身と左半身、別々の男の子にとりついて少女吸血鬼とともに地底にもぐり、別世界でモグラの大戦争にあい……と、くり広げられる場面場面はまことに面白い。半面、たとえば幽霊と遺伝子、パラレル・ワールドと吸血鬼といった論理レベルのことなるものが何の説明もなく共存したりする点など、ひっかかり出すと気になってしょうがないところも多いのだが、作者の肉声を楽しむおはなしとしてはさほどあげつらうべきではないだろう。いつもながら登場人物たちが健気であるのがほほえましい。(83/6)
論理レベル?
「夢枕獏『魔獣狩り』」(P.130-132)の項、P.130より。
しかし、去年の夢枕さんの売れかたは凄かった(きっと今年も凄いのだろうけど)。波に乗ったというか、今回完結した『魔獣狩り』の第一部〈淫楽篇〉が出てから、あっという間にベストセラー界(こんな言葉はなかったか)のスーパースターになってしまった。まんざら昔から知らぬ仲ではないぼくとしては、うらやましいような、気の毒なような、複雑な気持ちで目を見張ったものだった。
もちろん出版社の売り出しかたもあったのだろうが、それ以上に夢枕さんの蓄えていたものが巨大で魅力的であったためなのはいうまでもない。新井素子といい夢枕獏といい、新しい大鉱脈がSF界から発掘されることは、SF関係者一同、大いに誇っていいのではないだろうか。この前も新聞で、一九五〇年代のアメリカSFをなつかしむ人が、「今のSFはあの栄光の時代の残り火に過ぎないのではないだろうか」などと、いじわるとも同情的ともとれる発言をしていたが、あれはちょっと一面的に過ぎる見方であるように思う。いつまでも昔と同じSFが書かれるはずがないのだ。
夢枕獏は『魔獣狩り』により伝奇バイオレンス小説の一大ブームを巻き起こしていた。同時期に新井素子さんもベストセラー作家となっていた。
「新井素子『おしまいの日』」(P.429-431)のP.429-430より。
平松愛理のヒット曲『部屋とYシャツとわたし』は、その昔の小坂明子『あなた』と同じようなものだと思った。自分と、愛する男と、ふたりの愛の巣と。それだけで完結した世界の中にいて、わたしは幸せなんだわあ、と歌いあげる。
それがいけないというわけじゃないけど、あまりにも、ね。小さくまとまっているだけに、そこにヒビ割れが生じた時のことが心配になってしまう。ヒビ割れの原因は、必ずしも、その小さな世界の外にあると決まったものではない。新井素子の書き下ろし『おしまいの日』(新潮社)は、こうした女性に訪れる最も恐ろしい形の恐怖を描いた傑作だ。さっきいったような曲が、平静な気持では聞けなくなってしまう。
庭に猫が迷いこんでくるところから、話は始まる。結婚七年、まだ子供に恵まれない主婦三津子はそれを見つけ、エサを与える。借家で、動物を飼ってはいけないことになっているが、彼女はこっそり飼う決心をする。毎日帰りの遅い夫と自分との世界に、その猫だけは入ってくることを許可したつもり。ところが、猫は自分勝手で夫がいるときには出てこない。それどころか、ある時を境にパッタリ姿を見せなくなる。近所には野良猫を始末するよう保健所に通報する人物もいたりして、三津子の心配はつのる……。
と、こんなふうに書くと、若奥さまの他愛ない日常風景にすぎないのだが、人間の心のありようによっては、何気ない出来事がとてつもなく不気味なものに変化する。三津子の日記と、はたから見た三津子の様子を対比させることによって、そのあたりを作者は実にうまく描きだしてゆく。うろたえて猫を探しまわり、もしかして自分が見ていたのは”幻猫”ではなかったかと思い、あげくは猫の出てくる悪夢を見てしまう。気持の悪い鼠をくわえて寄ってくる猫。ゴルフクラブを投げつけている自分。スコップを持つ自分……。
夢と現実がごちゃごちゃになってきて、なおも「幸せな若奥さま」でありつづけようとする主人公には鬼気迫るものがある。それだけではない。白い虫なるものがウニョウニョと出てくると、話はもっと怖くて気持悪いものに。「おしまいの日」がどんなふうになるのか、手に汗にぎるが、はたして……。
結末には、賛否両論あるだろうな。八割が賛成で、二割が反対というところか。
私はこれでよかったと思う。一見、健全な世界が回復されたようでいて、しかし、よく考えてみると、本当のところはそうでないような感じ。どこまでも続く底無しの恐怖が作り出されているのではないだろうか。
しかしねえ、愛する人とずっと一緒にいたいと思って結婚したところが、恋人時代のようにゆっくり話をすることもできなくなってしまう、というような状況はよくあることだけれども、何か変ではありますよね。そこらへんを新井素子は鋭くついている。「世間には色々複雑な事情があるのよ」といったような側面を無視した書き方だが、それを言い出すと、こういう根本的な疑問をまっすぐにぶつけることはできなかっただろう。女性の弱さと強さを同時に感じさせる作品だ。
「否」の方はどんな意見だと著者は考えているのだろう? あと、この物語を性の問題に還元してしまうのには違和感あり。それから『部屋とYシャツとわたし』は正しくは『部屋とYシャツと私』。
『The S-F Writers 〈SFマガジン〉臨時増刊号』(P.598)。
日本人作家のアンソロジー。アルファベット順に二五人の著者の短編が並ぶ。多作のできる秘密を軽妙に語る清水義範『バイライフ』、宇宙空間で敵を待つ異形の生命を描く谷甲州『猟犬』、化石に秘められた人類誕生の謎を追う光瀬龍『遠い入江』など。(95/10)
本文中では言及されていないが、この増刊号には新井素子さんの「大きなくすの木の下で」という短編小説が収められている。
- 『現代SF最前線』,森下一仁,双葉社,3800円+税,ISBN:4575289191