植木等氏逝去。

時事通信社

2007/03/27-20:45 植木等さん死去=「スーダラ節」「無責任男」で一世を風靡

「スーダラ節」などのヒット曲で一世を風靡(ふうび)し、「ニッポン無責任時代」などの映画に主演した俳優で歌手の植木等(うえき・ひとし)さんが27日午前10時41分、呼吸不全のため東京都内の病院で亡くなった。80歳だった。自宅住所は非公表。葬儀は近親者のみの密葬で行い、後日、お別れの会を開く。
三重県宮川村に寺の住職の三男として生まれた。11歳の時に東京へ僧侶修行に出されるが、歌手を志し、バンドボーイなどを経て、1957年にハナ肇率いるクレージーキャッツに加入。テレビのバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」への出演などを機に茶の間の人気者となり、「スーダラ節」や「ハイ それまでョ」などを次々とヒットさせた。
コメディアンとしても活躍し、62年にはクレージーキャッツのメンバーも出演した映画「ニッポン無責任時代」で主演。とんとん拍子で出世していくお調子者のキャラクターが、高度経済成長下の世相とマッチし、人気を得た。その後、「無責任男」シリーズのほか、「日本一のホラ吹き男」などの「日本一」シリーズ、「クレージー作戦 先手必勝」などの「クレージー」シリーズが相次いで上映された。
90年には若者を中心に人気が復活。「スーダラ節」などの持ち歌をメドレーにした「スーダラ伝説」がヒットし、23年ぶりに「NHK紅白歌合戦」に出演。93年に紫綬褒章、99年には勲四等旭日小綬章を受けた。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007032701030

読売新聞

「日本一の無責任男」植木等さんが死去

映画「ニッポン無責任時代」や「スーダラ節」の歌などで、日本中に笑いを振りまいたクレージーキャッツのメンバーで、俳優の植木等(うえき・ひとし)さんが27日午前10時41分、東京都内の病院で呼吸不全のため亡くなった。80歳だった。
告別式は故人の意向により、近親者のみで行う。連絡先は渋谷区神宮前4の2の12のワタナベエンターテインメント
三重県にある浄土真宗の寺の三男に生まれ、11歳で上京。東洋大学卒業後、いくつかのバンドを経て、ハナ肇さん率いるクレージーキャッツに参加。ハナさんや谷啓さんらとともに主要メンバーとして、斬新な音楽コントを演じ、注目された。
1959年に始まったバラエティー番組「おとなの漫画」(フジテレビ系)、61年の「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ系)など、テレビでグループの人気が爆発。
破竹の勢いに乗って製作された「無責任」シリーズや「日本一」シリーズなどの映画では、高度経済成長を風刺するような軽薄なサラリーマン役を演じ、同年代から圧倒的な支持を集め、60年代の日本喜劇を引っ張った。
また、主題歌の「スーダラ節」「ハイそれまでヨ」などから、「わかっちゃいるけどやめられない」などの流行語が生まれたほか、「お呼びでない」などのせりふで日本中から愛される存在となった。
70年代以降は演技派への転身を図り、渋い脇役で活躍。86年には木下恵介監督「新・喜びも悲しみも幾年月」で日本アカデミー助演男優賞を受賞。90年代に入っても、数多くの番組やCM、映画に出演していた。6月公開予定の映画「舞妓(まいこ)Haaaan!!!!」が最後の仕事となった。93年に紫綬褒章を受章。
(2007年3月27日20時48分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070327it12.htm
まじめな私生活、軽薄サラリーマン役で“一世風靡

「昭和の無責任男」が逝った――。27日亡くなった植木等さん(80)は、「無責任」「日本一」シリーズなどの映画で、高度経済成長を風刺する軽薄なサラリーマン役を演じ、一世を風靡(ふうび)。その後もテレビドラマで活躍し、多くの世代に愛された生涯だった。
植木さんは1997年のNHK朝の連続テレビ小説甘辛しゃん」に出演したころから、肺気腫(きしゅ)を患い、治療を続けながら映画やドラマの仕事を続けていた。
しかし、今年1月、食欲不振を訴えて入院。その後も入退院を繰り返し、今月中旬に病状が悪化。谷啓さんや桜井センリさん、犬塚弘さんら、クレージーキャッツのメンバーが植木さんを見舞った。最後は妻の登美子さんと3人の娘に見守られ、息を引き取ったという。亡くなった直後には、付き人を務めたこともある小松政夫さんも駆けつけた。
テレビや映画で、いいかげんな男を演じながら、私生活はまじめ一方だった。「お呼びでない」のギャグで人気となった「シャボン玉ホリデー」のプロデューサーだった原薫太郎さん(68)は、「寺の生まれのためか、酒も飲まず、番組が終わると真っすぐ家に帰るような人でした」と振り返る。「だけど、番組が始まると人が変わったように爆発し、雰囲気がパッと明るくなる。そのパワーはすごかった。テレビの青春時代を支えた喜劇人でした」と語る。
お笑い評論家の西条昇さんも、「渥美清さんや藤山寛美さんが涙の入ったウエットな笑いだったのに対し、ドライでナンセンスな笑い。彼にしか出せない味があった」と高く評価する。
一方、61年に青島幸男さんが作詞し、爆発的ヒットを記録した「スーダラ節」では、「分っちゃいるけどやめられない」と、陽気なリズムに乗せてサラリーマンの悲哀を笑い飛ばし、庶民の絶大な支持を集めた。やはり青島さん作詞で、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と歌う「ドント節」や、「ハイそれまでョ」などでも、しがないサラリーマンを皮肉った歌を次々とヒットさせた。
70年代以降は、映画やテレビドラマで、味のある脇役として活躍。黒沢明監督の「乱」(85年)で戦国時代の武将役に起用されたほか、テレビドラマ「名古屋嫁入り物語」、「怒れ!求馬(きゅうま)」シリーズなどで存在感を示した。
(2007年3月28日2時3分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070327i217.htm

朝日新聞

植木等さん死去 80歳 「無責任男」で一時代 2007年03月27日20時41分

コミックバンド「クレージーキャッツ」のメンバーとして「スーダラ節」を大ヒットさせ、高度成長期のサラリーマンの悲哀を笑いに転化させた映画「無責任男」シリーズで知られる俳優の植木等(うえき・ひとし)さんが27日午前10時41分、東京都内の病院で、呼吸不全のため死去した。80歳だった。葬儀は近親者のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長男広司さん。
 三重県浄土真宗・常念寺の住職の息子で、小学6年で僧侶の修行のため東京に出る。音楽青年で東洋大卒業後、57年にハナ肇さんが結成した「クレージーキャッツ」に参加。テレビ番組の「シャボン玉ホリデー」にグループで出演し、「お呼びでない」などのギャグが当たった。
61年には「わかっちゃいるけどやめられねえ」のフレーズで知られる、青島幸男さん作詞の「スーダラ節」が大ヒット。62年の映画「ニッポン無責任時代」(古沢憲吾監督)での「無責任男」は代名詞に。いい加減で底抜けに明るく、要領の良さだけで出世街道をゆくサラリーマンを演じ、時代の寵児(ちょうじ)になった。
70年代後半からは性格俳優に脱皮、85年に黒澤明監督の「乱」に出演、栗山富夫監督の「俺(お)ら東京さ行ぐだ」で日本アカデミー賞助演男優賞を受賞した。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0327/005.html
軽薄だが理性的「モダンな個性」 植木等さん死去悼む声 2007年03月27日21時41分

植木等さんの死去を悼む声が各界から寄せられた。
シャボン玉ホリデー」などで共演したなべおさみさんの話 本当に可愛がってもらいました。一昨年のナベプロ50周年のイベントでお会いしたのが最後。「おうおう、なべ、年とらねえな」って声をかけていただいて……。植木さんが画面にポンと出てきて、ウハハハハと笑うだけで、見ている人誰もが瞬間的に明るい気持ちになれました。
     ◇
映画評論家・佐藤忠男さんの話 彼が演じた「無責任男」は日本の高度成長期の気分の象徴。「むちゃくちゃだが面白い時代が始まるぞ」と予感させた。当の本人はいたって冷静で、全盛期にも「思いっきり軽薄に振る舞ってますが、これでいいんですかね」などと言っていた。根はまじめな人で、反戦運動で逮捕された父を誇りにしていたのが印象に残る。軽薄だけれど理性的という、日本には珍しいモダンな個性の持ち主だった。
     ◇
演出家、宮本亜門さんの話 僕が89年に初めて大劇場を演出したミュージカル「エニシング・ゴーズ」に出てもらいました。駆け出しの僕の言うことをすべて聞いてくれました。あのベテランの大スターが毎日けいこ場に2時間早く来て、若いダンサーに交じって自主的にけいこをしていた。舞台上では何の努力もしていないように振る舞いながら、裏では身を粉にしている。これがショービジネスの精神だと教えられました。
     ◇
クレージーキャッツの仲間の犬塚弘さんの話 つらいですよ。夫婦のように連れ添ってましたからね。クレージーハナ肇が作り、植木が入ってぐっと幅が広がった。表向きは、大きな声で笑って「無責任」だなんて言ってましたが、まじめな、素晴らしい人でした。この時代、80歳なんて早いですよ。

http://www.asahi.com/culture/update/0327/020.html

毎日新聞

訃報:植木等さん80歳=俳優

ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバーとして活躍し、サラリーマンの哀感を込めた歌「スーダラ節」や映画「ニッポン無責任時代」など“無責任シリーズ”の大ヒットで一時代を築いた俳優、植木等(うえき・ひとし)さんが27日午前10時41分、呼吸不全のため東京都内の病院で亡くなった。80歳だった。葬儀は近親者だけで行う。自宅は非公表。
三重県宮川村(現大台町)生まれ。実家は浄土真宗の寺で、11歳で修行のため上京し、修行のかたわら、東洋大文学部へ進んだ。
1946年、ブルームード・セクションのバンドボーイとなり、クラブ・カサブランカ等で活躍。54年「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に移籍し、57年ハナ肇率いるクレージーキャッツに参加した。
59年「おとなの漫画」(フジテレビ)で人気者となり、61年「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)と歌の「スーダラ節」の大ヒットで、高度成長期のエネルギーを体現する存在として国民的スターに。62年の「ニッポン無責任時代」など東宝映画でも一時代を築いた。その後は舞台、テレビで個性を生かした俳優として活躍。86年「新・喜びも悲しみも幾歳月」(松竹)で毎日映画コンクール男優助演賞、キネマ旬報賞助演男優賞などを受賞。
90年には「スーダラ節」などヒット曲をメドレーにした「スーダラ伝説」がヒットし、NHK紅白歌合戦に出場した。93年紫綬褒章
97年ごろ肺気腫を患い、療養のかたわら仕事を続けていた。今年1月、体調の不良を訴え入院。今月中旬から容体が悪化していた。
毎日新聞 2007年3月27日 21時25分 (最終更新時間 3月27日 21時42分)

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070328k0000m040082000c.html

産経新聞

植木等さん死去 「無責任男」シリーズなどで人気

「スーダラ節」で売り出し、東宝映画「無責任男」シリーズで一時代を画した元クレージーキャッツのメンバーで俳優の植木等(うえき・ひとし)さんが27日午前10時41分、呼吸不全のため、東京都内の病院で死去した。80歳だった。三重県出身。葬儀は個人の遺志により近親者による密葬で行う。
平成9年に肺気腫となり、療養と仕事を続けてきたが、今年1月16日に食欲がなくなり入院、今月中旬から意識が混濁していたという。
浄土真宗の寺に生まれ、11歳で修行のため上京した。東洋大学文学部在学中にバンドボーイとなり、昭和32年にハナ肇率いるコミックバンド「クレージーキャッツ」に参加した。36年にテレビのバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」に出演、同時に、♪分かっちゃいるけどやめられない…と高度成長経済に入りかかったサラリーマンを歌った「スーダラ節」が大ヒットした。作詞は後の東京都知事青島幸男氏。
さらに「ニッポン無責任時代」「日本一のゴマスリ男」など東宝の「クレージー映画」シリーズで、いいかげんでありながらしっかりと大事をなす型破りなサラリーマン役を演じ、人気が爆発した。
ピークの昭和38年ごろには、テレビのレギュラーを何本も持ち、映画も1年間に主役4本を含む12本に出演した。
その後は舞台やテレビでクレージー時代とは違う個性を生かして俳優としても活躍。61年松竹映画「新・喜びも悲しみも幾年月」で毎日映画コンクール助演男優賞キネマ旬報助演男優賞などを受賞した。平成9年にはNHK連続テレビ小説甘辛しゃん」にレギュラー出演するなど、渋い脇役で存在感をアピールしていた。
5年に紫綬褒章を受章した。
(2007/03/27 20:17)

http://www.sankei.co.jp/culture/enterme/070327/ent070327002.htm

中日新聞

植木等さん死去「スーダラ節」「無責任男」

映画「無責任」シリーズなどの軽妙な演技で、高度成長期の大衆の気分を体現したコメディアンで俳優の植木等(うえき・ひとし)さんが27日午前10時41分、呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。80歳。三重県宮川村(現大台町)出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。後日、お別れの会などを開く予定。喪主は長男広司(ひろし)さん。連絡先は東京都渋谷区神宮前4の2の12、ワタナベエンターテインメント
植木さんは今年1月から食欲不振などを訴え、入退院を繰り返していたが、3月中旬から病状が悪化したという。
浄土真宗の寺に生まれ、父親の後を継ぐため11歳で上京、僧侶の修行をしていたが、東洋大在学中に歌手を志して音楽活動を開始。1947年にNHKラジオ「お昼の軽音楽」でデビューした。
57年からハナ肇さん率いる「クレージーキャッツ」のメンバーとして活動。61年に「チョイト一杯のつもりで飲んで」の歌いだしで愛された青島幸男さん作詞の「スーダラ節」がヒットし、国民的人気者に。翌年の「ニッポン無責任時代」に始まる東宝映画「無責任」シリーズなどで、ブームを巻き起こした。
テレビでは72年まで11年間続いたバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」などで、「お呼びでない」など多くの流行語を生んだ。
50歳で主演した北条秀司作の舞台「王将」で新境地を開き、以後は性格俳優として幅広い演技をこなした。黒沢明監督の「乱」や、木下恵介監督の「新・喜びも悲しみも幾歳月」での演技が国内の各映画賞を受けるなど高い評価を得た。歌手としても「スーダラ節」のほか「ドント節」「ハイそれまでョ」などのヒットがある。
舞台でも活躍し、名古屋・中日劇場では、70年に「ぎんぎんぎらぎら物語」にクレージーキャッツのメンバーとして出演。91年のミュージカル「エニシングゴーズ」のほか、96年の「名古屋嫁入り物語」を皮切りにした一連の「嫁入り物語シリーズ」では花嫁の父を演じ、味わい深い舞台を見せた。
93年に紫綬褒章、99年勲四等旭日小綬章を受章した。

http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20070328/mng_____sya_____004.shtml

ご高齢だったのでこういう日が近々やってくるという覚悟はしていたのだが、訃報に接するとやはり涙を禁じ得ない。学生時代、浅草東宝のクレージーオールナイトへ通っていた日々が懐かしく思い出される。スクリーンの中でパワー溢れる演技と豪快な高笑いを目にし、カルチャーショックを受けたものだった。友人たちと酔っぱらってクレージーの歌をよく歌ったよなあ。
植木先輩、安らかにお眠りください。合掌。