新聞記事から。

サンケイスポーツ

昭和の大コメディアン・植木等さん、呼吸不全で死去

「スーダラ節」や映画「無責任」シリーズの大ヒットで昭和30〜40年代に一世を風靡したコメディアンで元クレージーキャッツ植木等さん(本名同じ)が27日午前10時41分、呼吸不全のため都内の病院で死去した。80歳だった。植木さんは国民的スターとして映画、テレビ、舞台などで大活躍。日本の高度経済成長期に、時代を象徴する破天荒な笑いを振りまいた。故人の遺志で通夜・告別式は密葬で営まれる。喪主は長男、植木廣司(ひろし)さん。

「わかっちゃいるけどやめられない」「ハイ、それまでヨ」「お呼びでない」−。植木さんが歌ったヒット曲やギャグの数々は、老若男女を巻き込んで次から次へと流行語になった。まさしく戦後を代表するギャグマンだった。
植木さんは今年1月16日に食欲不振を訴えて入院。今月8日に一時帰宅したものの、翌日には再入院し中旬から病状が悪化したという。入院中は元メンバーの谷啓(75)ら仕事仲間が何度も見舞いに訪れた。植木さんは妻の登美子さんらに「自分に何かあったら密葬にして延命措置を行うのもやめてほしい」と語っていたという。自宅に戻った植木さんの遺体には元メンバーの谷や桜井センリ(77)が対面したが、ショックでコメントが出せる状況にないという。犬塚弘(78)は「兄貴のような人で、人間的にも素晴らしかった」と肩を落とした。
公の場に最後に姿を現したのは平成18年12月26日。元都知事で作家、タレントとしても活躍した青島幸男さん(享年74)の通夜だった。風邪のためという理由で鼻に人工呼吸器をつけて弔問したが、この頃から体調はすぐれなかったようだ。昨年11月、映画「舞妓Haaaan!!!」にゲスト出演したのが最後の仕事となった。
植木さんが看板スターだったクレージーキャッツが全国区の人気を獲得したのは、昭和36年8月に発売した「スーダラ節」(作詞・青島幸男、作曲・荻原哲晶)の大ヒットからだ。
♪チョイト一杯のつもりで飲んで いつの間にやらハシゴ酒…分っちゃいるけどやめられない ア、ホレ スイスイスーダララッタ スラスラスイスイスイ…
平泳ぎのように手をかいてガニ股で軽快にスキップし、陽気に歌う植木さんの姿は、日本が急速に発展した高度経済成長期の空気と見事に重なった。ただ、本人は酒がまったく飲めず質素な食生活を通していたという。
東京が世界初の1000万人都市となった昭和37年には、植木さん主演のクレージー東宝映画「ニッポン無責任時代」が公開された。威勢がよく調子のいいサラリーマン、平均(たいら・ひとし)が、ゴマをすりながらいつの間にやら社長にまで上りつめてしまうという痛快な映画。“無責任シリーズ”は人気となり46年まで続いた。
38年にはテレビのバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ、36年6月スタート)から「お呼びでない」というセリフが流行語になった。
植木さんの存在感は中年を迎えても衰えなかった。52年に舞台「王将」でシリアスな坂田三吉役に挑戦。正統派の演技が認められ、巨匠、黒澤明監督の「乱」(60年)、木下恵介監督の「新・喜びも悲しみも幾歳月」(61年)に起用されるなど、味のある役者として“お呼び”がかかった。
クレージー結成35周年の平成2年には、23年ぶりに「紅白歌合戦」に出場し瞬間最高視聴率56.6%で歌手別トップとなるなど、平成の世でも時の人となった。
後日、お別れの会を開く予定。

■植木 等(うえき・ひとし)

本名同じ。昭和2年2月25日、三重県多気郡荻原村(現、宮川村)生まれ。生家は浄土真宗常念寺。小学校3年の時に同県度会群四郷村(現、伊勢市)の三宝寺に移る。11歳の時に、東京都文京区の寺に預けられる。旧制京北中学から東洋大学専門部国漢科に進み22年に卒業。在学中からジャズバンドを転々とし、21年、刀根勝美楽団のバンドボーイ時代に盟友・ハナ肇と出会う。26年、荻原哲晶とデューク・オクテットに参加しハナと再会。32年にハナ肇とクレージーキャッツに加わる。34年、フジテレビ開局と同時に始まった「おとなの漫画」でギャグができるバンドとして知られる。36年「スーダラ節」の大ヒットで爆発的な人気を獲得。以後、時代の寵児となり多くの人々に影響を与えた。21年に夫人の登美子さんと結婚。一男三女をもうける。平成5年に紫綬褒章、11年に勲四等旭日小綬章を受章。血液型AB。

■お呼びでない

当時、「シャボン玉ホリデー」は生本番で行われていたが、付き人(現タレントの小松政夫)が出番を間違え、関係のないシーンに植木さんを出してしまったことで生まれたギャグ。植木さんはアドリブで「お呼びでない? お呼びでないね。こらまた失礼いたしました」とやり、これがディレクターに大ウケ。以後、関係ないシーンに植木さんが登場しては先のセリフを吐き、出演者一同ズッコケて、画面がハラホロヒレハレと揺れる通称“お呼びギャグ”が定着した。

国民栄誉賞授与へ

植木さんの功績を称える証しとして、国民栄誉賞が授与されることになりそうだ。同賞は総理府の管轄で「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった」人物から選ばれるが、叙勲のような明確な基準はなく、時の総理大臣の意向に大きく左右される。政治評論家の有馬晴海さんは「安倍政権は7月の参院選を前に、何をしてでも支持率を上げようと必死ですから、著名人への国民栄誉賞は十分ありえます。6月には住民税などの大増税が襲う。サラリーマンが一番楽しかった時代の顔だった植木さんの受賞は、国民の気分を和らげる意味で最高の選択でしょう」と話している。

http://www.sanspo.com/geino/top/gt200703/gt2007032801.html

スポーツ報知

俳優の植木等さん死去

俳優の植木等さんが27日午前10時41分、都内の病院で呼吸不全のため死去した。80歳だった。所属事務所によると、1997年に肺気腫を患いながらも仕事を続けてきたが、今年1月16日に食欲不振を訴え検査入院。今月8日に一時帰宅したが、翌9日に再入院。2週間前から病状が悪化し、意識が混濁。この日、永眠した。故人の意志を尊重し、告別式・通夜は密葬で行い、会場や時間などは非公開だという。後日、お別れの会などを開く予定。喪主は長男広司(ひろし)さん。
1957年から「クレージーキャッツ」のメンバーとして活動。61年に青島幸男さん作詞の「スーダラ節」が大ヒットし国民的人気者に。翌年の「ニッポン無責任時代」に始まる映画「無責任」シリーズで、日本中にブームを巻き起こした。
テレビのバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」では「お呼びでない」など多くの流行語を生んだ。
歌手としては「スーダラ節」のほかに「五万節」「ハイそれまでョ」などのヒットがある。93年に紫綬褒章、99年に勲四等旭日小綬章
(2007年3月27日22時48分 スポーツ報知)

http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070327-OHT1T00191.htm
ドリフも泣いた…「弟分」も植木さんの死を悼む

クレージーキャッツ」の弟分として、昭和のお笑い界を共に盛り上げた「ザ・ドリフターズ」のメンバーたちも、植木さんの死を悼んだ。
ドリフでは唯一、「だまされて貰います」(71年)「日本一のショック男」(72年)などのクレージー映画に出演した加藤茶(64)は「明るい植木さんというイメージしかなく、死ぬような人じゃないと思った。植木さんを見て育ってきたので非常に残念です」。志村けん(57)は「子供のころからあこがれていた方がお亡くなりになり、悲しいの一言です」と肩を落とした。
高木ブー(74)は「『かくし芸』で共演した時に一言一言が心温まる言葉を掛けてもらったことが心に残っています」。仲本工事(65)は「大先輩を亡くして悲しいです。人を元気づける笑い声が聞けなくなって悲しいです」とコメントした。
「酒も飲まず、非常にきまじめな方で、後輩やスタッフのことをとても気遣っていた」(事務所関係者)という植木さんはドリフのことをずっと気に掛けていた。ドリフが渡辺プロを出て独立した時は「メンバーそれぞれに才能があるんだから大事にやれや」とエールを送った。仕事での接点は少なかったが、フジテレビで放送されたクレージーの25周年記念番組で、珍しく共演した際にはとてもうれしそうにコントのアイデアを出していたという。
リーダーのいかりや長介さんが04年3月に亡くなった際、植木さんは目に涙を浮かべ「彼はクレージーキャッツを受け継いだというより、負けたくないという気持ちで頑張っていたと思う」と語っていた。
(2007年3月28日06時07分 スポーツ報知)

http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070328-OHT1T00099.htm

スポーツニッポン

植木等さん 仲間の待つ天国へ旅立ち

戦後の高度成長期を代表するコメディアンでクレージーキャッツのメンバー、植木等(うえき・ひとし)さん=本名同じ=が27日午前10時41分、呼吸不全のため都内の病院で死去した。80歳。三重県出身。本人の遺言により、近親者のみの密葬にし、来月初めにも「お別れの会」が執り行われる。肺気腫を患いながら仕事を続けてきたが、昨年、盟友の宮川泰(享年75)、青島幸男(享年74)の両氏を相次いで亡くし、憔悴(しょうすい)していたという。
今月1日に「クレージーキャッツ」に参加してちょうど50年を迎えた中、日本中にたくさんの笑いを届けてくれた植木さんが、静かに逝った。
所属する渡辺プロダクションによると、今月中旬に患っていた肺気腫が悪化。しばらくして意識が混濁し、27日午前、入院先の病院で登美子夫人と愛娘3人にみとられて亡くなった。
永眠直後、かつて付き人だった小松政夫(65)が駆けつけ、涙ながらに植木さんに寄り添った。何度も見舞いに訪れたメンバーの谷啓(75)と桜井センリ(77)は午後に自宅に戻った遺体と対面。2人とも話をできる状態ではなかったという。犬塚弘(78)は25日に見舞っていた。
肺気腫を患ったのは97年。療養しながら仕事を続けたが、昨年、日本テレビシャボン玉ホリデー」(61〜72年)で音楽を手掛け「クレージーキャッツ」の多くの曲を担当した宮川さん、同番組で放送作家を務めた青島さんを相次いで亡くし「かなりショックを受けていた」(関係者)。そして1月16日に食欲不振を訴え入院。入退院を繰り返していたが、9日の再入院後に病状が悪化した。
最後の仕事は東宝映画「舞妓 Haaaan」で、昨年11月の金沢ロケに参加。主演の柴咲コウ(25)らに声を掛け、立ち去るワンシーンだけの出演だったが、かくしゃくとした姿で小唄を歌うなど貫録の演技で共演者らを感嘆させた。
生家は浄土真宗の寺。東洋大在学中にディック・ミネにあこがれ歌手を目指し、「クレージーキャッツ」に参加したのは57年3月。61年にチョイト一杯の つもりで飲んで――の歌いだしで愛された「スーダラ節」がヒットし、国民的人気者に。翌62年から映画「無責任シリーズ」で大ブームを巻き起こした。テレビも含めて「お呼びでない」「ハイそれまでヨ」などの名ギャグが生まれたのは、当意即妙だった植木さんだからこそ。自分を消して役になりきるため、軽薄な主人公を「相当無理して演じた」と晩年に明かした。
青島さんら、気鋭のクリエーターたちと切磋琢磨(せっさたくま)し、たくさんの笑いを生んだ植木さん。当時、渡辺プロの渡辺晋社長(87年死去)宅に毎晩集まって語り合った仲間たちを追うようにこの世を去った。

◆植木 等(うえき・ひとし)本名同じ。1927年(昭2)2月25日生まれ。東洋大学文学部卒業後、フランキー堺のシティ・スリッカーズを経て、57年にクレージーキャッツに参加。「おとなの漫画」(フジ)でお茶の間の人気者に。61年には「スーダラ節」が爆発的ヒット。62年、映画“無責任シリーズ”の第1弾「ニッポン無責任時代」に主演。「新・喜びも悲しみも幾歳月」(86年)では日本アカデミー賞助演男優賞毎日映画コンクール助演男優賞などを受賞。93年11月、紫綬褒章、99年4月、勲四等旭日小綬章を受章。
[ 2007年03月28日付 紙面記事 ]

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2007/03/28/01.html
無責任男“自由と平等”日本に浸透

「無責任男」をキャッチフレーズに大活躍した植木等さん。しかし、そのイメージとは裏腹に、素顔は実直でまじめな人だった。差別や労働問題に身を投じ、投獄された父親への思いを胸に秘めながらの芸能活動。「無責任」という概念を通し、戦後の日本に自由で平等な空気を根づかせた。
昨年11月、植木さんは遺言として、登美子夫人と担当マネジャーに「何かあったら密葬にしてくれ」「延命措置などを行うのもやめてくれ」と伝えた。少しでも人に迷惑をかけることを嫌った人柄を象徴する“最後の頼み”だった。
高度成長期に「日本一の無責任男」として一世を風び。「お呼びでない?こりゃまた失礼致しました」のギャグで列島中を爆笑の渦に巻き込んだ。だが、素顔は実直な“責任男”。長年の知人たちによれば「普段は酒を飲まない」「まじめで勉強家」という素顔が浮かんでくる。「スーダラ節」の楽譜を渡された時に「こんなくだらない歌はイヤだ。これを歌うと人生が変わってしまう」と悩んだほど。父親に相談すると「わかっちゃいるけどやめられない」の歌詞は親鸞聖人の精神に通じると諭され、歌うことを決意したという。
この父こそが「人間・植木等」の原点。故郷の三重県宮川村(現大台町)。浄土真宗の寺の住職だった父親は軍靴の音が響く時代に、差別、労働問題に身を投じて「人間平等」を説き続けた。そのために投獄され、小学生だった植木少年は父の代わりに僧衣で檀家を回ったという。
「等」という名前も「人間平等」の精神から父が付けたもの。嫌がらせを受け、寺を追われたことでの故郷への積年の思いを胸に秘めながらコメディアンをし、初めて郷里に帰ったのは58歳の時。村人を前に「2度と来るものかと思っていました」と話し、涙を流した。
晩年の04年10月。新潟県中越地震では、200万円を寄付。その事実を公表せず「自分は体が動かないから、事務所で大いにやってほしい」と伝え、事務所によるチャリティーオークションに全面協力した。
「スーダラ節」で半分笑いながらの“不謹慎”な歌い方をしてみせた植木さん。それは「無責任」という概念とともに、父親が説いた「自由・平等」の精神を戦後ニッポンに響かせた。
[ 2007年03月28日付 紙面記事 ]

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2007/03/28/02.html
犬塚弘「つらい」偉大な先輩に感謝

植木等さん死去の悲報は芸能界にも衝撃を走らせた。クレージーキャッツのメンバーで、半世紀にも及ぶ親交があった犬塚弘(78)は「兄貴を失ったようです。つらいよね」としんみり。内田裕也(67)ら渡辺プロ時代の後輩たちやゆかりの人たちも思い思いの言葉で天国に旅立った偉大な先輩を悼んだ。
植木さんを兄貴と慕っていた犬塚は25日に病院に見舞ったばかり。「目をつむったままでしたが、娘さんが“お父さん、ワンちゃん(犬塚の愛称)が来てくれたよ”と声をかけると、握っていた手をグッと握り返してくれたような気がします」と声を震わせた。
映画「無責任」シリーズなどでコメディアンとして高度成長期を駆け抜けた2歳年上の先輩。その姿をそばで見ていた犬塚は「実際はまじめな人で、真剣にいろんなことを考えていました。“無責任”は映画の中だけでしたよ」としのんだ。
犬塚が渡辺プロを飛び出し、活動の中心を演劇の世界に移してからも必ず芝居を見に来てくれたという。「楽屋に来て、“あそこはそうじゃないだろう。こうした方がいいぞ”などとアドバイスをしてくれた。うれしかったよね」と振り返る。
一昨年11月の渡辺プロ50周年パーティー。「電話をもらって“クレージーキャッツを立ち上げたのはハナ(肇さん)とワンちゃん。事務所を出たからって遠慮はいらない。必ず来いよ”と言ってくれた。涙出ちゃいましたよ」と、あらためて感謝の言葉を口にした。
[ 2007年03月28日付 紙面記事 ]

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2007/03/28/03.html
欽ちゃん訃報に絶句…囲み取材を欠席

都内で行われた第16回日本映画批評家大賞の授賞式に出席した萩本欽一(65)は、報道陣から植木さんの訃報(ふほう)を聞いて絶句した。過去の映画の功績に対するエメラルド大賞を受賞し「気持ちよく野球をやっていたのに、映画を思い出せって言われているようで、うれしいやら、怖いやら…」とユーモアを交えながらトーク。しかし式の途中に知らせを受けて、ぼう然とした表情。関係者に「芸能界の大先輩なので、うかつにコメントできない」と当初予定されていた囲み取材をキャンセルし、足早に会場を後にした。
[ 2007年03月28日付 紙面記事 ]

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2007/03/28/04.html

デイリースポーツ

「日本一の無責任男」植木等さん死去

映画「無責任」シリーズなどで知られるコメディアンで歌手の植木等さんが27日午前10時41分、呼吸不全のため、都内の病院で死去した。80歳。植木さんは1957年、「クレージーキャッツ」に加入。「お呼びでない?」など数々のギャグのほか、61年に青島幸男さん作詞の「スーダラ節」が大ヒットし、国民的人気者になった。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長男・廣司(ひろし)さん。後日、お別れの会などを開く予定。
「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ〜」。底抜けに楽しい笑い声で、日本中を明るくした植木さんが亡くなった。
植木さんは1997年に肺気腫を発症。療養しながら仕事を続けてきた。昨年10月に都内で行われた映画関係のパーティーに出席。12月の青島幸男東京都知事の通夜には酸素吸入器をつけた状態で参列したが、集まる報道陣を一喝する気丈ぶりを見せていた。
しかし、今年1月16日に食欲不振を訴え、都内の病院に入院した。3月8日に一時帰宅したものの、翌日には再入院し、中旬から容体が悪化。27日朝、妻・登美子さんと3人の娘にみとられて息を引き取った。直後にデビュー前に付き人を務めていた俳優の小松政夫が駆けつけたが、間に合わなかった。
事務所によると、自宅に戻った植木さんの遺体にはクレージーキャッツ谷啓桜井センリが対面したが、2人ともショックで取材を受けられる状態ではなかったという。またメンバーの犬塚弘を含めた3人は入院中に何度も見舞いに訪れたという。
植木さんは57年に「クレージーキャッツ」加入。62年の映画「ニッポン無責任時代」が大ヒットして超売れっ子となった。明るいキャラクターで、高度経済成長期の浮かれた雰囲気と、サラリーマンの悲哀を笑い飛ばし、当時の日本の空気を巧みにすくいとった。
歌手としても「スーダラ節」や「ハイそれまでョ」などが次々とヒット。テレビでも「シャボン玉ホリデー」で「お呼びでない」など、数々の流行語を生み出した。マルチ・エンターテイナーの第一人者として、ザ・ドリフターズらに多大な影響を与えた。また、後年は名バイプレーヤーとして活躍した。
軽薄な無責任男というイメージと違い、素顔はきまじめだった。「スーダラ節」の楽譜を渡されたときは「こんなくだらない歌は歌いたくないと思った」と悩んだ。が、浄土真宗の僧侶である父親から「分かっちゃいるけど、やめられない-。等よ、これこそ、親鸞聖人の精神に通じる。一生懸命歌え!」と諭され、決意したという。
植木さんは病床で、登美子さんに「自分に何かあったら密葬にして、延命措置を行うのもやめてくれ」と語ったという。
明るさの内にあるマジメさとダンディズム。日本を代表するエンターテイナーが、ハナ肇さん、青島幸男さんらが待つ天国へ旅立った。

http://www.daily.co.jp/gossip/2007/03/28/0000283440.shtml

日刊スポーツ

クレージーキャッツ植木等さん死去

映画「無責任」シリーズなどで知られ、歌手としても活躍した日本を代表するコメディアンの植木等(うえき・ひとし)さんが27日午前10時41分、呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。80歳。三重県出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。後日、お別れの会などを開く予定。
57年から「クレージーキャッツ」のメンバーとして活動。61年に青島幸男さん作詞の「スーダラ節」が大ヒットし国民的人気者に。翌年の「ニッポン無責任時代」に始まる映画「無責任」シリーズで、日本中にブームを巻き起こした。テレビのバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」では「お呼びでない」など多くの流行語を生んだ。
歌手としては「スーダラ節」のほかに「五万節」「ハイそれまでョ」などのヒットがある。93年に紫綬褒章、99年に勲4等旭日小綬章
植木さんは今年1月、食欲不振を訴え、都内の病院に入院。今月8日には一時自宅に戻ったものの、翌9日に再入院。今月中旬には病状が悪化し、この日、妻登美子さんと娘3人にみとられて、静かに息を引き取った。
[2007年3月27日22時0分]

http://www.nikkansports.com/entertainment/f-et-tp0-20070327-175927.html
日本変えたスーダラ節のノリの良さ

コメディアンで俳優の植木等さんが27日午前10時41分、都内の病院で呼吸不全のため死去した。80歳。
代表曲「スーダラ節」は植木さんと日本を変えた1曲だった。誕生したのは61年。東京五輪を3年後に控え、高度経済成長期のまっただ中だった。当初、植木さんは「ふざけた曲」として歌うのを嫌っていた。そうでなくても、バラエティー番組でみせるすててこ姿のため、娘が学校で笑われていた。住職の父に相談すると、「『分かっちゃいるけど−』は親鸞の教えに通じる」と言われ、迷いを吹っ切った。
「芸能ビジネスを創った男・渡辺プロとその時代」(野地秩嘉著)によると、植木さんは「思えばあのころが世の中の変わり目だったね。スーダラ節は大ヒットしたが、その年の紅白歌合戦には出られなかった。品がないし、植木等は不謹慎だからだめというのが理由だったと思う」と振り返っている。それまでは歌詞をかみしめ、メロディーにじっくり耳を傾ける曲が主流だった。ところが、ノリの良さが第一の「スーダラ節」のヒットは、当時の日本社会の高揚感をあおり、クレージーも翌年紅白出場を果たした。
ちなみに「スイスイスーダララッタ」は植木さんが気分よくしたときに口ずさんだフレーズがベースだった。日本を気持ちよくさせるフレーズにもなった。
[2007年3月28日7時43分 紙面から]

http://www.nikkansports.com/entertainment/p-et-tp0-20070328-176098.html
植木等さん死去、肺気腫10年延命拒む

クレージーキャッツ」のメンバーとして高度成長時代に爆発的な人気を博したコメディアンで俳優の植木等さんが27日午前10時41分、都内の病院で呼吸不全のため亡くなった。80歳。「お呼びでない?」のギャグや大ヒット曲「スーダラ節」、映画「無責任男シリーズ」で60年代の日本に笑いを振りまいた。今年1月に入院し、3月中旬から病状が悪化していた。故人の遺言で通夜・告別式は密葬で営み、後日、お別れ会を開く予定。喪主は長男広司(ひろし)さん。
植木さんは、妻の登美子さんと3人の娘さんにみとられながら、静かに息を引き取った。
97年にNHK朝の連続テレビ小説甘辛しゃん」に出演中のころから肺気腫を患い、治療をしながら収録に参加した。その後も病気と闘いながら仕事を続けたが、今年1月16日に食欲不振を訴え、都内の病院に検査入院。点滴・治療を行い、今月8日に自宅に一時帰宅した。しかし、翌9日に再入院し、中旬には容体が悪化し意識も混濁。その間、「クレージーキャッツ」の仲間だった谷啓(75)や桜井センリ(77)犬塚弘(78)が見舞いに訪れ、谷は17日、桜井は12日、犬塚は25日が最後の面会になった。亡くなった直後、40年前に付き人をした小松政夫(65)が駆けつけ号泣した。
犬塚は「25日に見舞った時は呼吸が苦しそうだった。手を握ったら握り返してくれた気がした。2、3時間そばにいたけど、つらかった」としのんだ。
植木さんは昨年12月の旧友の青島幸男さんの通夜に酸素吸入器をつけ、車イスに座って参列した。しかし、焼香の際には車イスから立ち上がり、毅然(きぜん)と焼香する姿に、関係者は「男の美学を感じた」という。植木さんは当時から死を覚悟していたのか、同11月には妻、マネジャーに「自分に何かあったら密葬にしてほしい」「延命措置などを行うのもやめてほしい」と遺言を残していた。
実家は三重県浄土真宗常念寺。住職の父が「平等」にちなみ「等」と名付けた。小学6年で僧りょ修行のため上京したが、音楽活動にのめり込み、57年「クレージーキャッツ」に参加。61年から日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」に出演し「お呼びでない?」のヒットギャグを生み、故青島幸男さん作詞の「スーダラ節」も大ヒット。62年からの映画「無責任男シリーズ」で明るく調子のいいサラリーマンを演じ、同世代から圧倒的支持を受けた。
「無責任男」のイメージが強かった植木さんだが、根はまじめだった。犬塚は「きまじめないい人だったよ。きちんとしているからあれだけいい仕事ができた。クレージーは仲が良く、仕事が終わっても楽屋に残ってわいわいと話をして楽しかった。中心にいつもいて、華やかな人だった」。
植木さんは、70年代後半から性格俳優として活躍し、85年には黒沢明監督「乱」に出演。脇役で渋い演技をみせた。最後の仕事は昨年11月。金沢で1シーンだけ出演した映画「舞妓Haaaan!!!」(6月公開)。一昨年11月の渡辺プロ設立50周年パーティーでは、谷が歌い、犬塚がベース、桜井がピアノを演奏し、植木さんが「こりゃまた失礼いたしました〜」とセリフを入れて「クレージー−」を再現した。「『また4人でドラマをしたいね』と話していた。やりたかったなあ」。かなわぬ夢に終わった。
[2007年3月28日7時55分 紙面から]

http://www.nikkansports.com/entertainment/p-et-tp0-20070328-176108.html
共演の風間も植木さんの死を惜しむ

97年にNHK朝の連続テレビ小説甘辛しゃん」で父子役で共演した風間杜夫(57)も植木さんの死を惜しんだ。28日、東京・上野の下谷神社で明治座公演「うそつき弥次郎」(5月4〜28日)の大入り祈願後、取材に応じた風間は「あのころから(肺気腫で)具合が良くなかったことは昨日、初めて知りました。現場では明るく元気でしたから。具合が悪いところを僕たちにみせることはありませんでした。芸能界での功績も大きい方で残念です」。

http://www.nikkansports.com/entertainment/f-et-tp0-20070328-176340.html
勘三郎、植木さんの死に「寂しい」

中村勘三郎(51)は28日、コクーン歌舞伎三人吉三」(6月7〜28日、東京・渋谷シアターコクーン)の会見後、植木さんの思い出を語った。子供のころ、植木さんらクレージーキャッツの人気番組「シャボン玉ホリデー」に2回出演。「1度は『仮名手本忠臣蔵』のパロディーで植木さんが判官、僕が力弥をやった。最後は時限爆弾が爆発して、僕も植木さんと一緒に『ハロホロヒレハレ…』ってやったんですよ。大ファンだから、あこがれの人が亡くなるのは寂しい」。

http://www.nikkansports.com/entertainment/f-et-tp0-20070328-176338.html

中日スポーツ

植木等さん死去 80歳、呼吸不全で

映画「無責任」シリーズなどで知られる日本を代表するコメディアンで俳優の植木等(うえき・ひとし)さんが27日午前10時41分、呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。80歳だった。三重県出身。1957年にハナ肇さん(故人)が主宰するコミックバンド「クレージーキャッツ」に参加。「お呼びでない?」などのギャグで、一世を風靡(ふうび)した。70年以降は映画やテレビドラマなど俳優業を中心に活躍していた。通夜・告別式は近親者のみによる密葬で、故人をしのぶ会が後日、執り行われる。喪主は長男広司(ひろし)氏。
日本の高度経済成長期を代表するコメディアンの星がまたひとり、この世を去った−。
所属事務所によると、植木さんは1997年、NHK朝の連続テレビ小説甘辛しゃん」に出演したころから、肺気腫を患ったが、療養を続けながら仕事を続けてきた。
だが、仕事への意欲を見せながらも病魔は徐々に体をむしばんでいった。昨年末、“恩師”として慕ってきた青島幸男さん(享年74)の通夜には、鼻に酸素吸入器を着用して参列。関係者に支えられながらも自力で歩く姿を見せたが、健康面が心配されていた。
今年1月16日、食欲不振を訴えて都内の病院に入院。今月8日に一時帰宅したものの、まもなく容体が悪化。今月中旬からは意識が混濁していたという。そして27日は、妻の登美子さんと娘3人に見守られながら静かに息を引き取った。
昨年11月に植木さんは、登美子さんと担当マネジャーの3人で話し合った際、「自分に何かあったら密葬にしてくれ、延命措置などを行うのもやめてくれ」と遺言を残していたという。
入院中はクレージーキャッツのメンバー谷啓(75)や桜井センリ(77)、犬塚弘(78)らが何度も見舞いに駆けつけ、病魔と闘う植木さんを励まし続けてきた。谷は17日、桜井は12日、犬塚は25日が最後の面会となった。永眠後はすぐにかつての付き人、小松政夫(65)も駆けつけ、植木さんの死を悼んだ。
昨年11月、金沢市で行われた映画「舞妓 Haaaan!!!」(6月16日公開)のワンシーンの収録が植木さん最後の仕事となった。
(江川悠)

植木等(うえき・ひとし) 1927(昭和2)年2月25日生まれ。三重県大台町(旧宮川村)出身。東洋大文学部卒。11歳で僧侶修行のため単身上京。44年、東洋大入学。在学中、軽音楽同好会に入り、57年ハナ肇主宰のコミックバンド「クレージーキャッツ」に参加。テレビ創成期の59年「おとなの漫画」で一躍茶の間の人気者となる。61年「シャボン玉ホリデー」に出演し、下っ端サラリーマンの哀感をこめた「スーダラ節」が大ヒット。「お呼びでない?」などの名物ギャグも生んだ。
62年の映画「ニッポン無責任時代」に主演し、“スーダラ人生”“無責任男”は流行語となった。以後、俳優として活躍し、映画「乱」「新・喜びも悲しみも幾歳月」「塀の中の懲りない面々」などで好演。テレビ、舞台でも存在感のある演技を見せ、中でも89−98年、東海テレビで放送された「名古屋嫁入り物語」シリーズでは、頑固な父親を演じて高視聴率をマークした。CMでは傘の「アイデアル」や入れ歯洗浄剤「タフデント」に出演した。93年に紫綬褒章、99年に勲四等旭日小綬章を受章した。

http://chuspo.chunichi.co.jp/00/hou/20070328/spon____hou_____000.shtml

夕刊フジ

植木等さん死去…“スーダラ男”演じ切り

27日呼吸不全で死去したコメディアンで俳優の植木等さん(享年80)。小学3年生のときファンレターを出し、大人になってからは、夢がかなってイベントなどで一緒に仕事をしたお笑い評論家の西条昇さん(42、顔写真)が、夕刊フジに思い出を語った。
高度経済成長期、そしてバブルが弾ける前にもリバイバルブームが起きた植木さんの代名詞ともいえる「スーダラ節」。
「僕にとっては、“笑いの人”を通り越して、かっこいいヒーロー的な存在だった…」
小学校3年生だった西条さんは、植木さんに手紙を出し、直筆の返事が届いたという。
社会人になってから、偶然、仕事のオファーを受け、そのころの話を植木さんに切り出した。
「高校1年生になったら落語家になると書いていたんです。そんなこと書いてくる人がいなかったらしく覚えていてくださった」
その後、コンサートやディナーショーなど、憧れの人と何度も仕事をする機会に恵まれた。
植木さんの魅力は、見た目と中身のギャップだという。
「ジャズマン出身で、顔は二枚目、いい男にもかかわらず、アッハッハと笑う姿は見ている側の心を明るくしてくれた」
モーレツ社員を次々とパロディーにして歌った植木さんのものには、時に実際のサラリーマンから「決して、気楽な稼業ではないんですよ」という手紙が届いたこともあったという。
「でも、植木さんはバカにしているわけではなくて、気楽に行こうじゃないか、肩の力を抜いてっていう応援歌の気分で歌っていたんだと思いますよ」。そう代弁する。
さらに、「カップルが歩いている真ん中を、『ヨッ、やってるね!』と両方の肩を叩いて歩くシーンなんかも痛快で…」。演じ方次第では下品になりそうなギャグも、「それが、そうならなかった。お坊さんの息子さんだったこともあって、生き方に信念をお持ちだった」。
こんなエピソードもある。青島幸男さんから「スーダラ節」を渡されたとき、歌詞を見て「こんなうた、歌えない…」と悩んだが、その背中を押したのが三重県浄土真宗の寺で僧職をしていた父・徹誠(てつじよう)さんだった。
「『分かっちゃいるけどやめられない』というのは親鸞の教えに通じるものがある」と言われ、ようやく納得できたという。
「世のサラリーマンにストレートに『頑張れ』と言うのでは笑いにならない、ひとひねりして、エールを送ってくれていたのではないかと思います」
粋な詞は時代を超えて人々を勇気づける。

★独自の歌唱法、人一倍努力
植木さんは、東洋大在学中にジャズに目覚め、ハナ肇さんらと知り合い、クレージーキャッツに参加。ハナさんらのコミカルな演奏と植木さんのスタンダードな「クルーナー唱法」と呼ばれるマイクの前でささやくように歌う歌唱法のギャップも人気を呼んだ。
ミュージシャンとしての横顔について、音楽評論家の長田暁二さんは、「バラードやシリアスな歌もちゃんと歌えるコメディアンで、お経で鍛えた声とジャズのリズム感がミックスされていた」と評する。「クレージーキャッツの中でも一番まじめな人柄だった。テレビ時代にうまく乗った大スターで、高度経済成長期にあれだけ世の中を明るくしたタレントはほかにいない。陰で一生懸命勉強し、おじいさん役をやっても素晴らしい演技ができた。その芸は、技術よりも人間性が出ていた」と長田さん。

http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_03/g2007032802.html
植木等さん延命措置は拒否していた…闘病10年

植木等さんは、1997年にNHKの朝の連続テレビ小説甘辛しゃん」に出演していたころ肺気腫を患い、療養しながら撮影を続ける状態となり、その後の10年、病気と闘いながら仕事を続ける生活だった。
今年1月16日、食欲不振を訴えて都内病院に検査のため入院すると、点滴など治療も行った後も体調が回復せず、そのまま入院生活を送ることになった。
今月8日には自宅に一時帰宅したが、9日に再入院。2週間前から病状が悪化して意識混濁状態に陥っていた。
そして、27日の午前10時41分、妻の登美子さんと3人の娘に見守られながら静かに息を引き取ったという。
植木さんは昨年11月、妻や担当マネジャーに、自分に何かあったら延命措置など行わず、密葬にしてほしいなどの遺言を残していた。
クレージーキャッツのメンバーは入院後、何度も見舞いに訪れたが、桜井センリさん(77)は12日、谷啓さん(75)は17日、そして犬塚弘さん(78)は25日が、それぞれ最後の面会となった。植木さんの運転手を務めるなど付き人だった小松政夫さん(65)は永眠直後に駆けつけ号泣した。
植木さんの最後の仕事は、6月公開の東宝映画「舞妓Haaaan!!!」(水田伸生監督)のワンシーンへの出演。
水田監督は、「昨年11月の金沢ロケに現れた姿を忘れることはできない。宮藤官九郎さんの脚本を植木流に膨らませたアドリブで現場は大爆笑だった。大きく悔やまれるのは映画の完成を報告できていないこと。昭和という時代を失った気がしてならない」と語っていた。

http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_03/g2007032802.html
植木等さん監修の本人ソックリフィギュア発売へ

植木等さん自身が監修し、「歌って踊る」キャラクターを再現したフィギュアが昭和の日の4月29日発売される。フィギュアは「GOLDEN☆STAR(ゴールデン☆スタア) 日本一の無責任男 植木等」(1万3440円)で、植木さん自身が監修を行い、発売元はタカラトミー。6分の1スケールで、さまざまなポージングができる=写真(同社ホームページ)。
商品は団塊世代向きに製作され、明るい希望に満ちあふれていた1960年代の空気が凝縮されている。クレージーキャッツのキャラクターが玩具化されるのは60年代以来とあって、その出来映えに植木さんも満足そうだったという。
フィギュアの服は着脱ができ、派手なスーツ姿から、伝説のステテコ姿に変身させることもOK。また、すり鉢とすりこぎ、ハッスルコーラが6本付属するというクレージーファン感涙ものだ。発売日の4月29日は、植木さん主演の映画「クレージー黄金作戦」が公開されてからちょうど40周年にあたる。

http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_03/g2007032803.html

【関連記事】80歳の「無責任男」 植木等日本経済新聞2007年1月22日)

「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」。重い責任を背負ってきた50代以上の世代にとって、「日本一の無責任男」という肩書を持つ俳優・コメディアンの植木等さんはあこがれの存在であり続けている。そうした潜在的な植木ファンに向けて、フィギュアや映像ソフトが相次いで売り出された。12年ぶりに出演した映画も公開を控えている。
リアルなフィギュア「GOLDEN☆STAR 日本一の無責任男 植木 等」(タカラトミー、1万3440円)は植木さんを6分の1サイズで再現した。1960年代に国民的な人気を博したコミックバンド「クレイジーキャッツ」のボーカルで、コメディアンでもある植木さんはテレビのバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」や映画「ニッポン無責任時代」「日本一のゴマすり男」などで様々な役を演じた。フィギュアでもそうした多面性を大事にし、スーツ姿やステテコ姿などに着せ替えが楽しめるようにした。
映画「日本一のゴマすり男」(1965年)にちなんだすりこぎやすり鉢も付属品として用意した。映画「クレージー作戦 くたばれ!無責任」(63年)に登場する商品「ハッスルコーラ」の瓶も付いている。
植木さん本人が監修しており、細部に至るまで作り込まれている。36カ所の関節が動くので、映画や番組で見覚えのある好きなポーズに変えて飾っておける。あぐらや片足立ちも台座なしでできる。67年に植木さん主演のコメディー映画「クレージー黄金作戦」が公開されてちょうど40周年に当たる4月29日に発売する予定だ。
植木さんは1927年生まれ。東洋大学在学中からバンドボーイに。57年3月1日にハナ肇さんの率いる「クレイジーキャッツ」に参加。今度の3月1日はクレージー参加からちょうど50年の節目となる。「チョイと一杯のつもりで飲んで」と歌い出す「スーダラ節」が61年に大ヒット。「シャボン玉ホリデー」の人気爆発も重なり、一躍、国民的スターに上り詰めた。クレージーではリードボーカルとギターを担当した。
「お呼びでない?」「アイデアル 傘である」などの流行語を生んだ。しかし、時は流れ、植木さんをテレビCMに起用した洋傘メーカーのアイデアル(東京・台東)は2006年、自己破産を申請した。63年から流されたこの5秒CMには傘や商品の名前がなく、タレント・大橋巨泉さんの「ハッパフミフミ」(パイロット万年筆)とともに優れたナンセンスCMとされている。
最近では2006年末に死去した前東京都知事で作家の青島幸男氏の葬儀に姿を見せた。青島氏は「シャボン玉ホリデー」の台本を手がけ、植木さんが歌った数々のヒット曲の歌詞も提供した。植木さんは「現在の植木等があるのは青島幸男さんのおかげです」と、自分より若い青島氏の死を悼んだ。
植木さんの付き人兼運転手として芸能界入りしたのが、俳優でコメディアンの小松政夫さんだ。小松さんは当時の思い出を初の自伝『のぼせもんやけん』(竹書房刊)にまとめた。自動車のモーレツセールスマンだった当時を、「日経WagaMaga」でも振り返ってくれている。
クレージーキャッツ時代の映画は相次いでDVD化されている。結成50周年を記念して、「日本一の〜男」シリーズの4作品を収録した「クレージーキャッツ 日本一ボックス」が2006年にリリースされた。「無責任」シリーズ3作品を集めた「クレージーキャッツ 無責任ボックス」も出ている。
音楽CDも「50周年記念ベスト 日本一の無責任大作戦」が2006年に出た。「スーダラ節」「ハイ それまでョ」「ゴマスリ行進曲」「無責任一代男」などの代表曲を収めている。「Still Crazy For You」は歌手・松任谷由実さんコラボレーションした、クレージーキャッツにとっては86年の「実年行進曲」以来、20年ぶりの新曲だ。ユーミンが作詞作曲し、ムードジャズ風に仕上げた。メンバーにはハナさんらの物故者もいるが、谷啓さんがボーカルを、植木さんは語りを務めた。
植木さんは93年に紫綬褒章を受章し、80歳を迎えたが、しっかり現役。京都の花街を舞台に、舞妓にあこがれるサラリーマンと、舞妓たちとの恋愛を描くコメディー映画「舞妓Haaaan!!!」(主演は阿部サダヲ柴咲コウ)に茶屋のなじみ客役で出演している。映画出演は95年の「あした」(大林宣彦監督)以来、12年ぶりだ。公開は6月の予定だ。

http://waga.nikkei.co.jp/enjoy/movie.aspx?i=20070122e2000e2
植木等さん「国民栄誉賞」検討も…関係者「世論が…」

映画「無責任男」シリーズで一時代を画した俳優の植木等さん。同世代の俳優、渥美清さんは1996年に亡くなった直後、日本政府から国民栄誉賞を贈られている。さて、植木さんは…。
国民栄誉賞内閣総理大臣表彰の1つ。福田内閣時代の77年8月、当時巨人の王貞治選手=ソフトバンク監督=が通算本塁打の世界記録を達成したことをきっかけに創設された。
受賞者15人のうち、俳優は渥美さんと日本を代表する二枚目スターの長谷川一夫さんの2人。
官邸関係者は28日朝、「昨夜の時点では検討課題には挙がっていなかった。植木さんも『広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与え〜』という賞の趣旨に合うが、渥美さんや長谷川さんと違うのはグループで活動していたこと。単独受賞が適切かどうか。ただ、国民世論が盛り上がれば、当然検討することになる」と話している。

http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_03/g2007032808.html

読売新聞

高度成長、ドライに笑い飛ばす…植木等さん

「昭和の無責任男」が逝った――。27日亡くなった植木等さん(80)は、「無責任」「日本一」シリーズなどの映画で、高度経済成長を風刺する軽薄なサラリーマン役を演じ、一世を風靡(ふうび)。その後もテレビドラマで活躍し、多くの世代に愛された生涯だった。
植木さんは1997年のNHK朝の連続テレビ小説甘辛しゃん」に出演したころから、肺気腫(きしゅ)を患い、治療を続けながら映画やドラマの仕事を続けていた。
しかし、今年1月、食欲不振を訴えて入院。その後も入退院を繰り返し、今月中旬に病状が悪化。谷啓さんや桜井センリさん、犬塚弘さんら、クレージーキャッツのメンバーが植木さんを見舞った。最後は妻の登美子さんと3人の娘に見守られ、息を引き取ったという。亡くなった直後には、付き人を務めたこともある小松政夫さんも駆けつけた。
テレビや映画で、いいかげんな男を演じながら、私生活はまじめ一方だった。「お呼びでない」のギャグで人気となった「シャボン玉ホリデー」のプロデューサーだった原薫太郎さん(68)は、「寺の生まれのためか、酒も飲まず、番組が終わると真っすぐ家に帰るような人でした」と振り返る。「だけど、番組が始まると人が変わったように爆発し、雰囲気がパッと明るくなる。そのパワーはすごかった。テレビの青春時代を支えた喜劇人でした」と語る。
お笑い評論家の西条昇さんも、「渥美清さんや藤山寛美さんが涙の入ったウエットな笑いだったのに対し、ドライでナンセンスな笑い。彼にしか出せない味があった」と高く評価する。
一方、61年に青島幸男さんが作詞し、爆発的ヒットを記録した「スーダラ節」では、「分っちゃいるけどやめられない」と、陽気なリズムに乗せてサラリーマンの悲哀を笑い飛ばし、庶民の絶大な支持を集めた。やはり青島さん作詞で、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と歌う「ドント節」や、「ハイそれまでョ」などでも、しがないサラリーマンを皮肉った歌を次々とヒットさせた。
70年代以降は、映画やテレビドラマで、味のある脇役として活躍。黒沢明監督の「乱」(85年)で戦国時代の武将役に起用されたほか、テレビドラマ「名古屋嫁入り物語」、「怒れ!求馬(きゅうま)」シリーズなどで存在感を示した。
(2007年3月28日10時14分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070328ihw1.htm
3月28日付・よみうり寸評

チョイト一杯の つもりで飲んで……。植木等といえば、〈スーダラ節〉。その極め付きは歌詞中の〈分かっちゃいるけどやめられない〉のくだりだ◆チョイト一杯も大穴ねらいの競馬も、一目見た娘にたちまちホレるのも、失敗するのは分かっちゃいるけどやめられないのだ。大ヒットした曲だが、最初、植木は歌うのがいやでたまらなかった◆仕方ない、歌ってみるかという気にさせたのは父の一言。「分かっちゃいるけど……は、日本人の9割が同じように思って生きている。みんな自分のことを歌われたと思うだろう。間違いなくヒットする」◆僧侶である父の眼力は確かだった。その後、映画で演じた〈無責任男〉も「こんな宙に浮いたような人物なんかやりたくない」だったが、やがて植木はこう思う◆「スーダラ節は人生というものを分からせてくれた。自分がやりたいことと、やらなければならないことは別なんだと、教えてくれました」。この話、「この歌この歌手」(読売新聞文化部編)にある◆昭和の名コメディアン、真面目(まじめ)な無責任男逝く。80歳。
(2007年3月28日14時3分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070328ig05.htm

毎日新聞

植木等さん死去:高度成長を体現 したたかサラリーマン像

「お呼びでない? こりゃまた失礼いたしました」「わかっちゃいるけど、やめられない」。27日、惜しまれながら亡くなった植木等さん。高度経済成長下の管理社会でのサラリーマンのしたたかな生き方を歌やギャグで強烈に表現。熟年になって、別の味わい深い顔も見せた幅広い人生だった。
娯楽の主役がテレビへ移行する時、ジャズマン集団、ハナ肇とクレージーキャッツは新しいメディア、テレビに向かう所属の渡辺プロ(現ワタナベエンターテインメント)の戦略と共にテレビタレントに衣替え。時はまさにサラリーマンが主役の高度成長期。クレージーキャッツは小さな組織としてテレビで大暴れ。大衆をつかみ、映画やショーにも進出した。
中でも中心となるフロントマンの植木さんは、放送作家だった故青島幸男さんが設定した「組織は好きではない、でも、組織がなければ生きられない。できれば適当に生きていきたい」というサラリーマン像を体現、絶大な支持を得た。
東洋大学予科に入った植木さんは北海道で終戦を迎えた。「10月になっても、帰っていいという通知が来なくて。『われわれ文科系は必要ないと国がみなしている』といううわさが立ちました。あとでデタラメと分かったんですけど」。結局、世の中で当てにできるものはない。こんな体験が後の「無責任男」の圧倒的なパワーにつながったのか。
過労のため肝炎で倒れ、転機が訪れる。「僕自身、無責任男シリーズに疲れていて。入院して離れることができて、ほっとした面もありました」という。クレージーキャッツ全員そろっての舞台は79年が最後だった。実は酒もたばこもたしなまないきまじめな人。実像と虚像の落差を楽しんでいたのかもしれない。
クレージーキャッツのメンバーも植木さんの入院先をたびたび訪れていた。桜井センリさんは3月12日、谷啓さんは17日の面会が最後の別れとなった。亡くなる2日前の25日には、犬塚弘さんが病室を訪れていた。植木さんの所属プロダクションによると、メンバーはみんな「現在コメントを出せるような状態ではない」という。

▽お笑い評論家・西条昇さんの話 植木さんが「無責任シリーズ」で演じた平均(たいら・ひとし)は、会社からクビだと言われても道を踊り歩き、上司には「堅いこと抜きで行きましょう」と、普通のサラリーマンではできないことを演じてくれた。日本の喜劇人は、たとえば渥美清さんのように「涙あり笑いあり」という人が多いが、植木さんはドライでモダンで決して下品にならない笑いを見せてくれた。

▽映画「無責任」シリーズなどを監督した坪島孝さんの話 普段は礼儀正しく、自分の役柄を研究してくるまじめな人だったが、ひとたびカメラの前に立つと思い切りはじけた。現場でギャグや動きのアイデアも豊富だった。撮影準備中にも居眠りするほどの超多忙なスケジュールでも、セリフをトチることはほとんどなかった。高度成長時代とも重なり大スターとなった、百年に一人の逸材だった。

▽植木さんと親交のあった作家、小林信彦さんの話 ご本人はまじめな苦労人ですが、いったんライトを浴びるとすごくおかしくてインチキで怪しい人物になった。そこが魅力で生の舞台が一番すごかった。「無責任」シリーズは、努力すれば勝つというそれまでのサラリーマン映画を180度ひっくり返した。自分のことしか考えないサラリーマンを演じ、高度成長にさしかかる時代に登場したので受けたのです。

▽歌手の奥村チヨさんの話 同じ事務所だったので、10代の終わりごろテレビでいつもご一緒してました。植木さんは、テレビで見る通りの自然体の方で、こんなに明るく楽しく仕事ができる人がいるのかと、驚き、あこがれました。「チヨ、僕らは夢を売る仕事だよ。夢が売れなくなったらおしまいだ」といつも言っておられ、私は今もその言葉に従って努力するようにしてます。芸能人というより人間味と愛情あふれる人生の先輩という方でした。

毎日新聞 2007年3月27日 21時23分 (最終更新時間 3月28日 0時10分)

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070328k0000m040081000c.html

朝日新聞

素顔は「責任男」 延命拒む言葉残し 植木等さん死去 2007年03月28日00時06分

27日亡くなった植木等さんは時代をスイスイと駆け抜けた、ように見えた。クレージーキャッツの一員としてテレビの草創期に人気者となり、60年代、映画で一世を風靡(ふうび)した「無責任男」。しかし、その素顔はどこまでも「責任男」だった。
62年の映画「ニッポン無責任時代」で植木さんが演じた主人公・平均(たいら・ひとし)は、ろくに仕事もしないのに出世はするわ、女にもてるわ。周囲の迷惑なんのその、「わかっちゃいるけど、やめられねえ」とうそぶいた。「高度成長期の気分の象徴。むちゃくちゃだが面白い時代が始まるぞ、と予感させた」と映画評論家の佐藤忠男さんは話す。
30作品に及ぶシリーズで、世のサラリーマンの共感を呼んだ植木さんだが、実は素顔とのギャップに大いに悩んだ。
もともと寺の住職の息子。父は部落解放運動の闘士で、治安維持法違反で入獄もした硬骨漢だった。故・青島幸男さんから「スーダラ節」の歌詞を渡された植木さんは、「人生が変わってしまうかも」と悩んで父に相談。「この歌詞は親鸞の生き方に通じる」と諭され、歌うことを決意したエピソードは有名だ。
シャボン玉ホリデー」の構成を務めた、放送作家はかま満緒さんは「酒は一滴も飲まないが、かつらをかぶってカメラの前に立つと、人格が変わったように破廉恥な酔っぱらいを演じきった。無責任男がうけたのも、根がまじめだから」と振り返る。
70年代以降も、映画やテレビ、舞台にひっぱりだこ。映画「新・喜びも悲しみも幾歳月」など、滋味深い老け役で活躍した。89年に出演したミュージカルの演出を手がけた宮本亜門さんは、還暦を過ぎた植木さんが毎日2時間も早くけいこ場に現れ、若いダンサーに交じってけいこをしていた姿が忘れられない。「舞台で何の努力もしていないように振る舞いながら、裏で身を粉にしている。ショービジネスの精神を教えられた」
所属事務所によると、97年ごろから肺気腫を患い、療養しながらの仕事だった。今年1月、食欲不振で都内の病院に検査に行き、そのまま入院。3月中旬から意識は混濁し、最期は妻の登美子さんと3人の娘がみとった。
昨年11月、朝日新聞の取材で、植木さんは自分の死について「いつまで生きてるかっていうのは分からないからね。無責任男がどういう死にざまをするか。自分のことではあるけども、僕自身も興味のある問題だね」と、しみじみと語った。同じころ、家族やマネジャーには、こう言い残していた。
何かあったら密葬にして、延命措置もしないでくれ――。

http://www.asahi.com/culture/update/0328/001.html