上原隆『友がみな我よりえらく見える日は』。

思想の科学』1991年10月号に掲載された【ライター・インタビュー】「読者が見えなくなった」がより久美沙織に焦点を絞る形に改稿され、収録されている。新井素子さんと花井愛子氏へのインタビューはあるものの、かなり省略されている。事典の部分は全く同じ文章。新井素子さんへのインタビューはこのように短くなっている。「新井素子と花井愛子」の章(P.215-218)より。

新井素子と花井愛子に話を聞いた。
新井は、少女の口語体を最初に小説に使った人と言われている。花井さんは、X文庫ティーンズハートを支え、その中で一番売れている。
話を聞いている時には、こんな形で、登場していただくつもりではなかった。テープを聞きなおしてみると、二人の話の内容が、クッキリ対照的で、少女小説のこの数年の変化に対応しているように感じられたので、ここに二人の意見を並べてみることにした(新井さん、花井さん、気分を悪くしたらゴメンナサイ)。ちなみに、新井の小説デビューは一九七七年、花井は一九八七年である。

〈ナゼ売れてるのか?〉
新井 ナゾです。

花井 店頭の表紙のインパクトです。
――ほんとうにそう思ってんですか?(意外な答えだったので、聞き返してしまった)
花井 ええ、パッケージですね。かなりパッケージが重要です。読者層が小学校四、五年まで下がっちゃいましたから、本を買いに来るレベルにまだ育ってないんです。
本屋さんに言って、物語の良し悪しでは運ばないですから、なんで選ぶかっていうと、まずパッケージを見て、「あっ、かわいい」って手にとる。そこから始まりますから、で、「意外とおもしろいかもしんなーい」ということがわかって、他の作品にも伸びていきます。

〈ある日、自分の読者がいなくなるという不安はないか?〉
新井 へんな言い方ですが、水商売なんで、不安がないと言ったら嘘ですよね。すごく不安ではありますけど、不安に感じたってしょうがないだろうし。
――不安をなくすために何かやってますか?
新井 できないです、何も。どうしていいかわかんないもんね。ある程度、この仕事してれば、こういうのがうけるそうとか、こういうシーンを出すとうけるとか、多少読めるなってとこありますけど……、どうしたって媚びる気になんないし、たぶん、媚びはじめちゃったら、逆に、その段階でいっせいにソッポを向かれるんじゃないかと思う。

花井 つねにそれは、ターゲット・ニーズの市場動向とか見てれば見えますよ。

新井は、自分の小説は、読者の意向にあわせて書いてるのではないことに自信をもっている。それに対して、花井は読者の意向をつかんで書けることに自信をもっている。新井のタイプから花井のタイプへ、これが、この数年の間に、少女小説の書き手に求められるものとして現れた変化ではないだろうか。つまり、最初、書き手たちが自分の書きたい世界を書くことによって読者を形成し、ブームとなったものが、次に、ブームの方から書き手たちに読者像を提供しはじめたのだ。

  • 文体について
  • 現在の少女と自分の描く少女とのズレはないか?

この二つの質問が省略されている。収録された本の内容の違いにより、少女小説自体に対する考察の必要が薄くなったためと、少女小説家として終焉を迎えつつある久美沙織へのインタビューと整合性を持たせたためではないかと思われる。
あとがきにも新井素子さんが名前だけ登場している。P.234より。

先日、SF作家協会が、「久美沙織著作100冊突破記念パーティ」を催した。
私は本書の編集者・針谷順子さんをさそってでかけた。
会場は六本木の「タトゥー東京」といって、映画『シャル・ウィ・ダンス』の撮影に使われたつころだという。
高校の教室くらいの広さで、照明が暗く、音楽が響いていて、ディスコのようだ。一〇〇人近い人が飲み物を手に、おしゃべりをしている。
人をかきわけてカウンターに行き、針谷さんと自分の分のウィスキーを手にいれてもどった。針谷さんは目ざとく新井素子さんを見つけ、名刺を渡して挨拶をしている。

このパーティで久美沙織が全開バリバリで歌を歌ったことが書かれている。いしかわじゅんが『秘密の手帖』(文庫版は『業界の濃い人』)で書いた「彼女のちょっとした問題」というエッセイの題材はこの時のことだと思われる。とすると、あとがきとは全く関係ない処で、新井素子さんがいしかわじゅんに向かって「一発ぶっとばしてもいいと思ってる」と言い放っていた筈である。
単行本版を図書館で借りたのだが、文庫版が幻冬舎アウトロー文庫より出版されているのを今日知った。そちらもチェックしてみたい。