小谷野敦『美人作家は二度死ぬ』。

自店で購入。あまり食指は動かなかったのだが、遠く離れた図書館にしか置いてないし、需要の無さそうな本を住民の血税を使って近隣の図書館で購入してもらうのも気が引けたので自費で買った。表題作とともに収録された「純文学の祭り」という短編小説に新井素子さんの名前をもじったと思われる女性作家が登場する。P.206-207より。

それで、純文学とは何か、ってことだが、二〇一〇年頃に、「私小説だけが純文学だ」と言い出した評論家もいて、みんな考えるのが面倒になっていたから、賛同する者が多く、私小説否定派の作家Mが死んだ後だったこともあって、一時は豊島賞の候補作は私小説ばかりになっていた。それから当然の如く揺り戻しがあり、特に、元SF作家で、のち純文学作家として認められ大家になった壺井公隆が、若い頃SFだからといって三上賞をとれなかった恨みを抱いて死後怨霊となり、SFを文学とは認めない、というような発言をする作家や評論家がいると、坪井(原文ママ)の怨霊が出て悩まされるというので、一時文題界隈は噂でもちきりとなり、次の三上賞から、SF作家の花井元子を選考委員に加え、いきなりバリバリのハードSFが受賞するという騒ぎになった。

壺井公隆てのは筒井康隆のもじりで、「SFだからといって三上賞をとれなかった恨み」云々の件は小説『大いなる助走』を下敷きにしたものと思われる。この場面に花井元子さんが登場する必然性がよく判らない。SFを茶化したい著者があまり深く考えないでそれなりに名前の知れているSF作家を持ってきただけという気もする。
「ハードSF」て表現も曖昧である。「ハードSF」にはSF業界で一般的に用いられる定義と世間的な定義の二種類があって、前者は現代科学の理論や技術を極めて重視しそれを応用して練られた基本設定を元に科学的に整合の取れた物語を構築した小説のことをいうのに対し、後者は単にいわゆるSF色の強い小説(えてして設定が壮大だったりテーマが重かったりする)のことを指す。俺は「ハードSF」というと反射的に前者のことだと思ってしまうのだが、ここではたぶん後者のことなんだろうなあ。だから最初読んだ時にこの部分は非常に違和感があった(自称「日本一科学に疎いSF作家」が選考委員を務めて「バリバリのハードSF」が受賞してしまう、という)。