スティーブ・ウィリアムス逝去。

全日本、新日本などで活躍し「殺人医師」の異名を取った元プロレスラーのスティーブ・ウイリアムスさんが昨年12月30日(日本時間同31日)、喉頭(こうとう)がんのため米コロラド州デンバーの病院で死去した。49歳だった。7月、東京・新宿FACEで行われたIWAジャパン興行(対ヘルアント・マシン2号)に出場したのが、日本での最後の勇姿となった。
レスリングの全米大学選手権4連覇の実力者で83年にプロレスデビュー。立って良し、寝て良しの万能レスラーで、ヒール(悪役)ながら圧倒的な強さで人気を博した。86年の新日本登場をきっかけに、日本マット界に進出。「人間魚雷」と恐れられたテリー・ゴディ(故人)とのタッグでは世界タッグ王座を8度獲得。スタン・ハンセンや、昨年6月に亡くなった三沢光晴さんとも激闘を繰り広げた。故ジャイアント馬場さんにもかわいがられ、馬場さんの死後、選手が大量離脱した全日本に残留。04年にはK-1リングで、イグナショフベラルーシ)との総合格闘技戦に臨み、22秒でKO負けした。
04年にがんで闘病していることを公表し、声帯を全摘出する手術を受けていた。87歳の母、17歳の息子の面倒を見ながらの闘病生活を送り、体調をみながらリングに上がっていたが、がんが転移していることが分かり、引退を宣言。昨年10月25日にIWAジャパンで予定されていた引退試合も、体調悪化で延期され、実現することはなかった。(デーブ・レイブル通信員)

nikkansports.com:殺人医師S・ウイリアムスさん49歳で死す

スポニチ・アネックスでは昨日速報が伝えていた。上の記事では「万能レスラー」と書いてあるけれども、実際はアマレス出身の割に不器用なパワーファイターで、破天荒な強さと無鉄砲な技が魅力のレスラーだった。俺が新日本プロレスを再び見始めた80年代末の外国人エースだったのである。落日のアントニオ猪木は明らかにウィリアムスの強さを持て余しており、勝つには勝っていたけれどもどちらが真の勝者であったかは明らかであった。(いや当時の俺はそんなことは絶対に認めなかったけどね。)何かトラブルがあったのか、試合中にフロントチョークで猪木を締め落としてしまったことが強く印象に残っている。あれには鳥肌が立ったなあ。エースとしては輝かしい実績は残すことはできなかったけども個人的には大好きだった。
全日本に移籍した当初、大勢いる一線級外国人の中にあってあの無茶苦茶さがやや影を潜めてしまった嫌いがあり寂しさも感じたが、なぜ外国人レスラーは全日に行くとイキイキと輝き出すんだろうと悔しい思いもしたものだ。世界タッグ戦線に君臨し幾多の激戦を繰り広げた盟友テリー・ゴディとの「殺人魚雷コンビ」は歴史に残る名タッグだったと懐かしく思い出される。まだ40代なのに。
ドクター・デスよ、安らかに。
新日時代の入場テーマ曲「Born In The U.S.A.」を聴きながら。