「もし桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に勝っていたら歴史はどうなっていたか」。

昨日開催された第一回静岡戦国祭の特別シンポジウム「桶狭間を語る!!」の中で登場した話題。参加したパネリストは小和田哲男本郷和人、中井均、宮下英樹の各氏。経歴などはリンク先を参照。

司会の加藤理文が個人的な興味からかなり唐突に尋ねた飛び道具のような質問だったので皆さん困っておられたようだったが、とても興味深い話が聴けた。前提としてこのシンポでは、桶狭間の戦いでは実は今川義元に上洛の意図はなく、その真相は尾張三河間の国境紛争か、または尾張に対する侵略戦争、もしくはその両方だったのではないかとし、「今川義元が上洛の途中に桶狭間織田信長の奇襲に敗れた」という定説に対する疑義が唱えられていた。
宮下は有力者が統率する地方国が鼎立した連邦国家のようになったのではないかという自説を披露。例えば今川が東海王、北条が関東王、伊達が奥州王、毛利が中国王、長宗我部が四国王、島津が九州王といった具合である。
本郷はその説にほぼ同意。根拠は当時の文献を調べていても戦国大名たちに上洛の意図があったようには思えないから、とのこと。なので地方経営が安定すればそもそも統一国家を作ろうとはしなかっただろうだろう、と。で、その中にあって天下統一という着想を得たことこそが織田信長の特異性だったのでは、とも語った。(各戦国大名が上洛を目指して争ったとする歴史観は江戸時代に作られたのではないか、頼山陽が元かも知れない、とも言っていた)一方で武士の支配を社会の縦軸とするなら横軸として当時各地で騒動を巻き起こしていた最大の宗教勢力である一向宗の存在があったとし、もしかすると各王が鼎立した状態でもそのうちの誰かは信長のように宗教勢力を一掃する行動に出たかも、とも。(それが火種になって天下統一志向が起こるかも、ということだろうか? ここはちょっとよく判らなかった)
中井は城館遺跡研究者の立場から城郭は全く違った形になっただろうと言っていた。石垣作りで天守閣がある城郭建築は信長が広めた訳だから。(司会の加藤に「それは僕でも言えます」と突っ込みを入れられて苦笑していた・笑)
小和田は本郷の戦国大名は上洛なんか目指してなかったのでは、という説に同意したが(本郷が大袈裟にVサインを掲げた・笑)、しかし仮定の話はできない、との立場を取り突っ込んだ話はしてくれなかった。まあ歴史研究者としては当然だわな。
以上、覚えている範囲で書き起こしてみた。記憶違いがあるかも知れないし自分なりの解釈を加えてしまっているかも知れないし発言もこの通りでなく意訳して書いているのでそこはご勘弁を。