再び小林信彦作品の解説から。

『オヨヨ島の冒険』の新井素子さんによる巻末解説については10月26日の日記(id:akapon:20041026#p2)に書いた。新井素子さんはこの他に新潮文庫の『イエスタデイ・ワンス・モア Part2』でも解説を書いている。こちらにも『オヨヨ島の冒険』の解説と同じく自らの文体の小林信彦から受けた影響について記述があるので記しておく。
「視覚的」「聴覚的」という区分が再び登場する。作家が物語を構想する際の発想法として、頭の中に浮かんだ視覚的イメージから話を構成し組み上げていく方法を”視覚的な発想法”と呼んだ後、しかし自分は”聴覚的な発想法”とでも言うべき方法で多くの場合話を作っていると述べている。

 ”聴覚的な発想法”の場合、浮かんでくるのは台詞か音。あるいは、登場人物のしゃべり方の癖。イントネーション。会話の”間”。

 この台詞が描きたい。この耳に残るイントネーションを時にして読者の目に残したい。この”間”を伝えたい。

 これはもう、私なんかの文章力では、文字で絵を伝えること以上に、最初っから無理な話ではあるのだけれど……でも私、何とか、無理は無理なりに努力して、その台詞が最も効果的に読者の目に触れるよう、その”間”(これを小説であらわすのは殆ど不可能だとは思うんだけど)が最も美しくなるよう、お話、それ事態を構成し、組み上げてゆく(つもりである。少なくとも、私は。読者の方がどう受け取るかは、えーとその……いろいろ、あるでしょう、ね)。

そして、この発想は小林信彦の影響であると思う、としている。

 小林さんの小説は、目で見える”絵”だけでできてはいない。

 いや、むしろ、私が読んだ限りでは、小林さんの小説から感じられるのは、それこそ、私がずーっと目標にしていて、未だ果たせずにいる、一種の”間”であり、会話の妙であり……そして、肌で感じる”空気”なのだ。

「読者が気持よく感じてくれるような小説を書きたい」という『イエスタデイ・ワンス・モア』の作者ノートに書かれた小林信彦の言葉を引き、その言葉を遂行している小林信彦への畏敬の念を語っている。
新井素子さんが頭の中で自分のキャラクターたちをよく会話させている、というのは聞いたことがあるが、それがそのまま創作方法へと直結している、というのは興味深い。

 小林さんって、子供の頃から、私の憧れの作家だった。最初に私が小林さんの本を読んだのは小学四年生の時だったと思うんだけど、この時初めて、私、お話が面白いだけじゃなく、文章、それ自体が面白いって言うのも、ありなんだって知ったのだった。

文章それ自体に拘る姿勢は明確であり、理想の文章に近づくために今でも試行錯誤が行われていることが想像される。そう考えれば、原稿の書き直しが頻繁に行われている様子であるのも納得できるような気もする。
尚、小林信彦新井素子さんが読んだ「オヨヨ・シリーズ」の本を1972年の合本版ではないかと書いていたが(id:akapon:20041027#p1)、小学四年生の時という新井素子さんの記憶からすれば、1970年の朝日ソノラマ版だったと考えるのが妥当ではないだろうか。