西脇順三郎の詩が登場した箇所とは?

4月14日の日記(id:akapon:20050414#p1)に関連して、下記の渡部直己の発言を検証してみようと思ったのである。

新井素子の『くますけと一緒に』なんか、『異邦人』みたいに始まるわけよ。「昨日はお葬式だった。パパとママの」ってね。中途には、西脇順三郎の『Ambarvalia』まで出てきます。あれはきっと、高校の教科書に出ていたんでしょう。余計な知識がない分、あるいはテクストの具体的な過剰に出会わずに済む分、「名作」のイメージというものが彼女たちにとっては新鮮で重宝なんだね。

西脇順三郎の詩集『Ambarvalia』を図書館から借りてきた。初版本を底本にした日本図書センター発行の新愛蔵版シリーズという本である。

通して読んでみたが、この中の詩が『くますけと一緒に』の中にどのような形でどこに出てきたのかはよく判らなかった。判らなかったがしかし、「太陽」という詩に出てくる「カルモヂイン」という言葉に聞き覚えがあったのである。いつ頃だったかはよく覚えていないのだが、新井素子さん関係の調べ事をしていた時にネットでこの単語を検索したことがあった。それが何であるのかは結局判らなかったが、検索したことだけは間違いない。ただ、じゃあどの本に出てきたのかとなるとさっぱり思い出せない。『くますけと一緒に』に出てきていないことは判った。他には……。
数時間頭を悩ませた後、待てよ、”詩”だとすると一番可能性が高いのはあれではないかと頭に浮かんだタイトルがある。読んでみると確かにあったあったありましたよ。案の定『グリーン・レクイエム』である。
その場面を抜き出してみよう。講談社文庫版のP.42-43である。

外へ出られないあたしを哀れんでか、おじさんは詩集をいっぱい買ってくれた。あたしは夢の中でいろいろな処へ行って――余計、せつなくなる。

ギリシア。海をへだてた国。遠すぎて、空想するのも容易でないけれど、カルモジインの夏。スモモの藪。青いスモモの藪。あたしははしゃいで小川の中を歩く。泳いでみる。ドルフィンをつかまえようとして手を伸ばす。あたしの手首は細すぎて、小魚一匹つかまえられないだろうけれど、それでもいいの。手さえ、伸ばせたら。

あるいは、あたしは立っている。南風が吹き、雨が降る。あたしは立っている。待って。青銅をぬらし、ツバメの羽と黄金の毛をぬらした静かな柔らかい女神の行列が、あたしの上に注ぐのを待って。

そう。雨にだって、ぬらされてみたかった。

西脇順三郎の名前は出てきていないのだが、明日香が読み、そこに描かれた風景に思いを馳せることとなった詩集の中に西脇の物があるのは、『Ambarvalia』に収められた二つの詩と比べてみてはっきりと判った。詩は「ギリシア的抒情詩」という章に登場する。一つは「太陽」というタイトルである。*1

カルモヂインの田舎は大理石の産地で

其処で私は夏をすごしたことがあつた。

ヒバリもゐないし、蛇も出ない。

ただ青いスモヽの藪から太陽が出て

またスモヽの藪へ沈む。

少年は小川でドルフィンを捉へて笑つた。

二つ目は「雨」というタイトルである。

南風は柔い女神をもたらした。

青銅をぬらした、噴水をぬらした。

ツバメの羽と黄金の毛をぬらした。

湖をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。

静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした。

この静かな柔い女神の行列が

私の舌をぬらした。

ギリシア」「カルモジイン*2」「青いスモモ」「小川」「ドルフィン」「南風」「雨」「青銅」「女神の行列」「ツバメの羽と黄金の毛」。ぴたりと一致する言葉たち。
そうだったのか、と初めて得心が行った。今までこの部分の原典が何であるのか全く知らなかったのである。奇想天外社版で初めて『グリーン・レクイエム』を読んだのはまだ俺が中学の時だったから、それから約20年を知らないまま過ごしてきたのである。素研サイトを作成し本格的に調査を始めてからも既に4年が過ぎている訳で、発見時にその年月の重みがそのまま衝撃となって脳天を直撃したのであった。判らなかったことが判るのってなんて気持ちがいいんだろう。いや、もちろん西脇順三郎の有名な詩のことであるから新井素子さんのファンでもとっくに知っていた人は多かったのだろうと思うけれども、個人的には猛烈に感動した出来事であった。
で、話は最初に戻る。渡部直己は『くますけと一緒に』の中に『Ambarvalia』が出てくると話している。俺はその部分を見つけることができなかった。それはもしかすると俺に文学的な素養がないせいで、見る人が見れば歴然と判ることなのかもしれない。もしそうであればどなたか是非ともご教示願いたいと心から思う。
ただ、彼の著作を読んで彼の発言や文章をどうにも胡散臭いと感じているという個人的事情があるからなのだろうと思うのだが、その発言自体が彼の記憶違いで、『グリーン・レクイエム』に出てきたのを覚えていた彼が何故か作品を混同してこのよう言ってしまったのではなかろうか、という疑問(邪推だな)をぬぐい去ることができない。ちなみに渡部直己はこの発言が収録された『それでも作家になりたい人のためのガイドブック』(1993年発行)の続編とも言える著書『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』(1996年発行)の中で、悪例として『グリーン・レクイエム』を取り上げている。だからこの発言をした時点で『グリーン・レクイエム』を渡部が読んでいて、その記憶を『くますけと一緒に』と混同していたと仮定して、渡部直己の発言はおかしいのではないかという話をしたい。
上で引用した『グリーン・レクイエム』の文章と西脇の詩、これらは渡部が言うように”「電通」的イメージの使用”に該当するのだろうか? そうは思えないのである。”「電通的」イメージの使用”というのは、ある有名な著作の着想なり文章上の技巧なり文体なりを原典中の文脈とは切り離した形で別の作家が自作に使用するようなことを言うのだと思う。渡部が『くますけと一緒に』の冒頭の文章をカミュの『異邦人』のパクリだと断じたのがその一例だ。しかし上記『グリーン・レクイエム』の文章は、明日香が自分の読んだ詩集に描かれた世界に思いを馳せる描写の後で、読む人が読めばはっきり西脇順三郎の詩だと判る言葉を書きつらね、その世界に憧れる心情を表現しているシーンである。その登場の仕方はこのシーンの前段で名前が登場する萩原朔太郎中原中也も同じなのであって、詩そのものが作品の中に小道具として登場してきているのだ。著者や作品のイメージだけを借りているのではないことは明白で、なぜそれが”「電通的」イメージの使用”などと曲解されなければならないのか、それが理解に苦しむ処なのである。渡部は、自分が作った言葉を正確に運用することができていないか、単に読解力がないのか、最初から真剣に読もうとしていないのか、の何れかなんじゃないだろうか、とかさらに邪推したくなる。

*1:読んだ本が旧仮名遣いで書かれていたので引用もそれに従った。底本は昭和8年に発行された初版本である。新井素子さんがどの本でこの詩を読んだのかは判らない。

*2:「カルモジイン」という地名は実在せず、作者の創作らしいとの情報を得ている。