『S-Fマガジン』1978年5月号を読む。連載企画「矢野徹インタビュウ:この人との一時間」第七回に登場したのは光瀬龍である。その中でインタビュアの矢野は光瀬龍の学歴についても話を向けている。東京教育大学理学部動物学科卒業後、文学部哲学科に学士入学して卒業、というのが一般的に知られた光瀬の最終学歴だろう。俺もそれしか知らなかった。しかしここではもう少しだけ詳しい経歴が述べられている。P.161-162より抜き出してみる。
――うーん。それで、何高校を出て、何大学に入ったわけ?
光瀬 旧制の一関中学というやつを出て、あのころのことだから、いいかげんなものだけど、そこを出てね、東洋大学の予科へ入ってるんですよ。
――へーっ、初めて聞いたあ!(本当にびっくりのてい)この二十何年間かに。
光瀬 いいや、いったことはあるって! 東洋哲学科へ入ったわけよ……そこをやめちゃってさ。明治の農学部へ行ってんのよ。そこもやめちゃってさ……これがね、やめるときに、納めた入学金と月謝をちゃんと取りもどしてからやめてんのよ(大笑い)。
――おまえんとこは怪しからんとかいって?
光瀬 いやいや、そうじゃなくて、もう二十年も二十五年も前のことだけどね、学校の悪口いったって仕方がないけれど、やっぱり気にくわない部分があったわけね。それでやめちゃってさ……それで、高校へもどったわけよ。高校ってのは、東京のね……それから教育大へ行った訳よ。
――東京の高校には、一年ぐらいいたの?
光瀬 だからね、正味七か月ぐらいしかいないはずですね……半年ぐらいかな?
――それで、教育大学理学部の動物学科か……それを三年間ちゃんと?
光瀬 いや、四年。
東洋大学の卒業生としては、光瀬龍が東洋大に在籍したことがあったというのが最大の驚きであった。結局は中途退学している訳だが、これはいつのことだろう。詳しい年までは語られていないのだ。
光瀬は哲学方面と昆虫学(生物学)方面に関心を持っていたようで、教育大ではまさにその二つを専攻した訳である。しかし最初に志したのは哲学だったというのは大いに興味深い。もっとも氏も入学後に哲学科学生によく起こる幻滅を味わったらしい。P.163-164より。
――なんでがっかりしたの? だれだって同じといえば同じなんだろうけれど。
光瀬 やっぱりね、入る前に考えていた哲学というのは、噴飯物なんだけどね……噴飯物というところを強調したいんだけどさ……哲学というのは、生きるための指針とかね、知恵みたいな気がしていたわけさ。子供心にね……哲学というのは、哲学史にすぎないわけさ。
――教えていたものはだろ?
光瀬 既存の哲学というのは、哲学史になりかわっているわけなんだ。
哲学関係の学科にはこのような「生きるための指針や知恵」を教えてくれるんじゃないか、といった希望を持って入学してくる者も多い。ただ、そういう人は専門科目を教わる前の基礎科目の段階でめげてしまい、そのまま学校に来なくなったりすることも多い。それは印度哲学科に通った俺の実感であり、在学中から哲学科の友人との会話にたびたび登場した話題だった*1。そのおなじみのネタが光瀬龍の口から出るとは思わなかった。軽くショックを受けた。まあ、「噴飯物」というのはその当時の自分の認識の甘さを反省しての言葉である訳で、だからこそ最終的には哲学科を卒業したのであろうと推測はできる。
とすれば光瀬がこのように思ったのは、順番からするとやはり東洋大で哲学を学んだ時だったのだろうか。話の流れで言うと、
という図式が自然かと思われるのだが。ネットで検索してもこの辺りの事情に触れたページは見つからない。気になる。