『ユリイカ』2006年11月号。

「フィクションは何処へゆくのか 固有名とキャラクターをめぐって」というタイトルの東浩紀桜坂洋新城カズマによる鼎談の談話中に新井素子さんの名前が出て来るので要チェック。
P.216より。

東 ところが、その誤解に基づいて近代文学的な現代語訳『源氏物語』が書かれる。だとすれば、その延長上で、ラノベ的な再解釈に基づいた『源氏物語』も書かれてもいいはずですよね。
新城 そこでまさに翻訳という作業が、創作と解釈のど真ん中に落ちてくる。
東 これはとても面白い話で、そういう枠組で考えると、ここ二、三〇年の日本文学史がエンターテインメント、純文学関係なくひとまとめに書ける。たとえば、橋本治とは何だったのかとか。
新城 新井素子さんもそうですけど、橋本治さんもプレ・ライトノベル的なものとして、非常に重要な作家ですよね。
東 まさにそうでしょう。橋本治ライトノベルの関係なんて、最近ではあまり問題になってないけど、本当はそういうのを統一して語る視点が必要なんですよね。文学とエンターテインメントという対立自体を一新しないと、日本の文学は駄目になる一方だと思います。やれ『ダヴィンチ・コード』だ、やれ『ハルヒ』だとその都度踊っているだけですから。

P.219-220より。

新城 それを承けて言うと、自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズムの差異というのは、かたや時間があり「私」の物語を語るもので、かたや時間をなくし「キャラクター」の固有性を立てていくというものになりますけど、もう一つの可能性があるんじゃないかと。まさにさっき言われた星新一さん式のショートショートですね。あれは物語が凝縮してあるんだけれども、キャラクターの印象はむちゃくちゃ薄い。エヌ氏とかエス氏とか交換可能なんですね。小咄やアネクドートは、ものすごい強烈なオチがあって不可逆時間なんだけれども、キャラクターでもなく「私」でもない主役がいる。あそこをもう一度意識したほうがいいのかなあと。そのためには星新一を読み直すという大変な作業が待っているいるわけですけど(笑)。でも、星さんが新井素子さんを見出したという事実も考え合わせると、実は思った以上に重要な系譜なのかも知れない。遡れば星新一大下宇陀児に注目されて商業デビューしたわけですし。
桜坂 奇想天外SF新人賞佳作を新井さんが「あたしの中の……」で獲ったときに、星新一だけが推して、あとは全員反対したというのはいま考えるとすごく意味があることですよね。
新城 自然主義的リアリズムがまんが・アニメ的リアリズムを発見したという話は、そんなに簡単に言えるわけじゃなくて、星新一というものすごい人がいたということがワンクッション挟まるとわかりやすい。やっぱり星新一の偉業を真剣に再考すべきではないかと、今こうやって話していて突然思うわけです(笑)。

内容については、そもそも理解できていないし文学がどうなろうと知ったこっちゃないのでコメントは控える。
ただ、星新一新井素子の小説に太宰治との共通性を見出していたようなので、それは考慮に入れた方がいいかも。(参照するインタビューは『幻想文学』11号と『新井素子100%』)