竹内康浩『東大入試 至高の国語「第二問」』。

裏表紙の内容紹介より。

日本最難関と言われる東大入試。その国語・現代文問題には良問が多いが、なかでも「第二問」は、文章を読んだうえで感想や考えを160〜200字で書かせる、独特かつ伝統的な「200字作文」である。世に出たばかりの金子みすゞの詩を取り上げた「伝説の1985年第二問」を始め、寅さんのセリフ、死に行く友人への手紙……とバラエティに富んだ作品が毎年出題され、これらには実は通底する大テーマがあった――。まさに「至高の第二問」である。1999年をもって、この「第二問」の形式は消えたが、今なおこのテーマは東大入試に出題され続けているのだ。
東大は受験生に何を求めているのか――。過去問30年分を分析し、題材となった様々な文章を読み解き、解説書の「赤本」では触れ得ない作品の本質に、ひいては東大入試の本質に迫る。

こんなような内容の本である。著者は1965年生まれ、東大文学部を卒業し、2008年現在は北海道大学大学院文学研究科准教授を務めている。
新井素子さんの朝日新聞に発表したエッセイ*1が1987年の東大入試で出題されたことがあったのだが、それがこの「第二問」だった訳である。この本の中で他の「第二問」と同じように、新井素子さんのエッセイを巡る問いについて著者が解説・解釈している。このような問題である。P.124-125より。

次の文章を読んで、「私の風景」という題で、感じたこと、考えたことを、一六〇字以上二〇〇字以内でしるせ(題を書く必要はない。句読点も一字として数える)。
注意 一、例文の鑑賞や批評を求めているのではない。
   二、採点に際しては、表記についても考慮する。


夏が、そろそろ終わる。
そう思うと、いつも、なぜだか、あたしの心の中にうかんでくる情景がある。
そこは、どこかの空き地なのだ。雑草が適当にのび、地肌は見えない。別に囲いもさくもないから、空き地のすぐわきは道路で、その道路はアスファルトで舗装してある。そして、道路には、電柱が一本たっており、その電柱にはセミがとまっている。もちろん、セミはうるさいほどに鳴いている。これは何の風景なのだろうか。
夏の終わりっていうと、必ずこの情景が頭の中にうかんでしまうので、あたしはずっとそれを考えてきた。何度考えても、空き地と電柱以外には何もうかばないので、ひょっとすると、その辺は、全部空き地なのかも知れない。だが――どこをどう、自分の記憶をひっぱりまわしても、あたしには、その情景に該当する風景の心あたりがないのだ。
あたしが子供のころには、もうすでに東京は大都会で、空き地なんてめったになかった。一応、二つほどの空き地を覚えてはいるのだが――どっちも、すぐ横に、電柱なんてなかったし、一つは明確にさくで囲まれていたはずだ。
それでも、なぜかこの情景は、あたしにとってとても懐かしく、おまけに思い出すと少々胸が痛む。鳴きたいほどに、懐かしすぎるのだ。
あれは、何の情景、どこの風景なのだろうか。現実にある風景なのだろうか。それとも、あたしの心の中だけに存在する、あたしにとって、夏の終わりの原風景なのだろうか。
今でも、あの電柱では、夏の終わりにはセミが鳴いているのだろうか。
(出典 新井素子「夏の終わり」『朝日新聞』)

P.125-133に渡って著者による解釈が書かれている。どんなことが書いてあるのか、興味のある方は一度目を通して見て下さい。
【参考】http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/2008/08/post_27.html