小林信彦『〈超〉読書法』、『読書中毒 ブックレシピ61』。

読了。図書館で借りた本。二冊とも読書に関するエッセイを収録したエッセイ集である。新井素子さんの名前が本文中に出て来るという情報を得たので読んでみたのだが、映画と読書に関する小林信彦の該博な知識に圧倒された。本の読み方、語り方などは非常に参考になる部分が多い。最近の日本の文化一般に対する不満と悲嘆が何度も文中に出てくるので、一本筋の通った大人のぼやきエッセイのようにも読める。
新井素子さんが登場してくる箇所はそれぞれの本にひとつずつある。
〈超〉読書法』では、「暗い記憶とホラーの熱帯夜」*1中に新井素子さんの小説『おしまいの日』とエッセイ集『近頃、気になりません?』が登場する。単行本版はP.159-160、文庫版はP.177より。

新井素子の前作「おしまいの日」は、ソフトなドメスティック・ホラーだったが、「近頃、気になりません?」(廣済堂出版)は、日常を描いたユーモア・エッセイである。
〈九回目の結婚記念日を迎えた〉〈それなりに仲のいい夫婦〉の日常なんてものは、はっきりいって他人には面白くない。お好きなように、てなもんである。
それをそう思わせないのは、独特の一人称スタイルのせいだ。
たとえば、
〈……どんどん、改善してゆこうじゃないの、旦那の食生活。〉
とか、
〈今の旅行では、タクシーをばんばん使っちゃう。……それ、何か文句、ある?〉
という部分。
ふつうだと、〈何か、文句ある?〉と書いてしまうのだが、〈文句〉と〈ある?〉の間に、点を入れたために、より(原文傍点)開き直った感じが出る。
新井素子さんは〈フツーの話し言葉〉で小説を書くことの開拓者の一人だと思うが、こういうところがちがうのだな。しかも、〈重畳〉なんて古いコトバを使っているので、いよいよ不思議な感じがする。

小林信彦といい大塚英志といい、ひょっとして新井素子さんの小説の文体が「話し言葉」とか言ってるのって男だけなんじゃなかろうか。女の人でそう言ってたのって誰かいたか? いや全く根拠のないただの思いつきなんだけど。話し言葉はどう転んでも書き言葉にはならない、という強固な思い込みが俺の中にあるものだから、どうも引っかかるのである。〈普通の話し言葉〉じゃなくてわざわざ〈フツーの話し言葉〉と書いてあるニュアンスもちょっとよく判らない。「開拓者の一人」と文中に出てくるからには小林信彦には他に思い当たる人が複数いると思われるのだが、誰誰だろう。橋本治とか?
もう一冊、『読書中毒』では、「〈茜色の〉クロニクル」*2の中に『おしまいの日』が登場する。P.224-225より。

ポストモダン小説は終わったというが、そんなことはない、と学者が書いていた。どうでもよいことである。外国は知らず、日本では〈ポストモダン〉と銘打つ小説の大半はイモであり、クズである。ふつうのストーリーテリングができないので、〈見るからにポップ〉な外見で中味の空疎さをごまかす。三流芸人でさえ恥ずかしがる駄ジャレをならべて、これが〈ポストモダン〉ですという。これらがわからないのは、〈遅れている〉という恐るべきロジックである。
はっきりいって、読者はこんな本を相手にしない。翻訳ミステリを読む方がマシにきまっている。あるいは新井素子さんの『おしまいの日』を読む。(『おしまいの日』は「新潮」十一月号で吉本隆明氏が高く評価している。)

この吉本隆明の文章は以前にもyuzoさんに教えてもらった(id:akapon:20040329#p1)。まだ読んでいないが、収録された本(『現在はどこにあるか』新潮社)は、調べたら市内の図書館にあった。借りてみるか。
小林信彦の読書に関する他の著作も読んでみたい。『本は寝ころんで』、『面白い小説を見つけるために』(『小説世界のロビンソン』)、『地獄の読書録』辺りを借りてみよう。

*1:初出は『週刊文春』1994年9月15日号。未確認。

*2:初出はたぶん『本の雑誌』。『小説探検』(本の雑誌社/1993年10月)を改題して本書に収録している。このエッセイはその中の一編。