新聞記事から。

サンケイスポーツ

小松政夫「あと5分」死に目に会えず、植木等さん通夜で悲痛

クレージーキャッツの俳優、植木等さん(享年80)=写真=の訃報から一夜明けた28日、昭和39年から約4年間、付き人兼運転手を務めたタレント、小松政夫(65)がサンケイスポーツの取材に応じ、悲痛な思いを明かした。「あと5分で病院に着くところだったのに」と死に目に会えなかった悔しさをにじませ、「優しいオヤジでした」と声を詰まらせた。この日、親しい関係者のみで通夜が行われたといい、29日に密葬が営まれる。

「たった5分の違いでした…」
オヤジの最期を看取ることができなかった悔しさで、いっぱいだった。
小松によると、植木さんは2月後半から「いつ逝ってもおかしくない状態」。小松は今月3日から名古屋・中日劇場で上演された舟木一夫特別公演に出演。26日に千秋楽を終え、翌27日午前9時半ごろ植木さんを見舞うため自宅を出ようとしたその時、電話が鳴った。
「危篤と聞いて、急いで車に乗ったんですが、もう少しで病院に着くところで『今、亡くなりました』という電話が入って…」。病室で無言の対面を果たすと、植木さんのお気に入りだった着物の着付けをした。
小松にとって植木さんは芸能界の父であり、恩人だった。運転手募集の記事を雑誌で見て応募し、昭和39年から3年10カ月、付き人を務めた。
「一番の思い出は付き人卒業かな。植木さんを乗せて運転していたら『(渡邊晋)社長に(小松が)タレントができるように言っておいた。マネジャーもつけたから、明日から来なくていいよ』といわれ、うれしくて涙がこぼれて運転できなくなったんです。車を止めて、私が泣きやむまで待ってくれて。優しい父親のような人でした」
デビューした小松は「♪しらけ鳥、飛んでいく」「どうしてなの、ねぇ、おせぇて、おせぇて」など、師匠譲りのナンセンスギャグで一世を風靡(ふうび)。得意ネタの一つ、映画評論家、故淀川長治さんのモノマネは、植木さんのステージの幕間、場つなぎコントの中で編み出した。
最後に言葉を交わしたのは1月。「自宅を訪ねたら玄関まで来ていただけて。立つのもつらそうだったので『きょうは遠慮します』といって帰ったんです」。
植木さんが、肺気腫などさまざまな病気を押して仕事を続けてきたことを誰よりも知っていた。「これ以上、病気をしないで、本当にゆっくりお休みください」。言葉に気持ちを込め、オヤジに別れを告げた。

★結婚式で媒酌人

昭和30年代後半から40年代にかけて、人気絶頂だったクレージーキャッツにはマネジャーのほかに複数の付き人がいた。ボーカルの植木さんに小松、リーダーの故ハナ肇さんには37年からなべおさみ(67)が付き、なべは39年、タレントに転身した。50年代には、元ヒップアップの島崎俊郎(51)がハナさんの付き人を務めた。植木さんは小松、ハナさんは島崎の結婚式で媒酌人を務めた。

★追悼番組「日本一のホラ吹き男

テレビ東京では、29日の木曜洋画劇場を「プロジェクトA」から変更し、植木さんの追悼番組として昭和39年公開の主演映画「日本一のホラ吹き男」(古沢憲吾監督)を放送することを発表した。

風間杜夫「とても残念」

俳優、風間杜夫(57)が28日、明治座(東京都中央区)の座長公演「うそつき弥次郎」(5月4−28日)の成功祈願で東京都台東区下谷神社を参拝し、植木等さんへ哀悼の意を表した。
NHK朝の連続テレビ小説甘辛しゃん」(平成9〜10年)で、造り酒屋一家の父子役で共演した植木さんについて「いつも現場で明るく元気な方でした。とても残念」と惜別の言葉。同公演に出演する平田満(53)も「共演したことはないけれどあこがれの的でした。残念です」と話していた。

肺気腫

呼吸細気管支と肺胞が拡張し、破壊される疾患。息を吐き出す際に空気が肺から出ていかなくなり、肺全体が膨張したり、心臓を圧迫するなどして、咳、痰、息切れ、動悸などの症状を訴えるようになる。呼吸困難から不安感や意識障害を併発することも。中年以降の男性、特に喫煙者に多く発症する。

【悲しみの芸能界】

◆渡辺プロ創始者の故渡邊晋氏夫人で、現会長の渡邊美佐さん(78)

「お見舞いに参りましたとき、お元気がなかったのですが、まだまだ先のことだと思っておりました。現実になってみますと、本当にショックで言葉がありません。渡邊晋が亡くなった後、渡辺グループの柱となって本当に温かい大きな力となってくれました」

◆歌手、ミッキー・カーチス(68)

「彼がクレージーキャッツに入る前から、ジャズの名プレーヤーだと知っていた。ヒットパレード時代は毎日一緒だった。音楽と笑いの見本みたいなグループだった。何も言葉が見つからない…。非常に残念です」

◆ミュージカル「エニシング・ゴーズ」(平成元年初演)で共演した女優、大地真央(51)

「突然の悲しいお知らせに今、言葉もありません。子供のころからユーモアあふれる植木さんの映画が大好きで、植木さんは私の“あこがれの大人”でした」

◆タレント、中山秀征(39)

「私が新橋演舞場で初座長を務めたとき、楽屋の暖簾(のれん)をいただいた思い出があります。植木さんが正月の『かくし芸』の審査委員長だったときに、私が演目を演じた際『ヒデ、これが本当のかくし芸だよ』とおっしゃっていただき、大変勇気付けられました。本当に残念でなりません」

ネプチューン名倉潤(38)

「お会いするたびに『頑張っているか?』と声を掛けていただき、あこがれの、いつもかっこいい方でした」

◆同・原田泰造(37)

「いつも大きな笑顔で接してくださり、神様のような人でした。ドラマでもご一緒させていただき、助言してくださったり、ほめてくださったり、本当に感謝しています」

◆同・堀内健(37)

「日本中に夢と元気を与えてくれて、心からありがとうございましたと言いたいです」

◆女優、松本明子(40)

「偉大すぎる先輩で、礼儀にも芸にも厳しい方だったので、会うたびに緊張しました。クレージーキャッツの『信じなさい』という曲をリメークした時にあいさつに行ったら、大笑いして『松本頼むよ、頑張れ』と応援してくださり、うれしかったことを思い出します」

◆俳優、吉田栄作(38)

「本当にかっこいい方でした。芸能界で生きていく上で、とても大切なことを教えていただきました。ゆっくりお休みくださいお疲れ様でした」

ホンジャマカ石塚英彦(45)

「われわれの教科書のような存在の方でした。非常に残念です。常に植木さんを目指し、この世界で頑張っていたのでショックです。忙しい方だったので安らかにお休みください」

◆TIM・レッド吉田(41)

「植木さんは本物のエンターテイナーだったと思います。偉大な先輩に少しでも近づけるよう頑張っていきます」

◆同・ゴルゴ松本(39)

「芸の厳しさ、人間としての心の広さを教わりました。残念でなりません」

◆タレント、青木さやか(34)

「無責任シリーズは私のバイブルです。ご冥福をお祈りします」

アンガールズ山根良顕(30)

「偉大な先輩だったので、もっとお話とか聞いてみたかったのに、残念です」

◆同・田中卓志(31)

「かくし芸の収録でご一緒に仕事をさせていただいた時、若い芸人に対しても温かい言葉をいただき、とても励まされたのを覚えています。できればもっと接して、いろんなことを教えていただきたかった」

http://www.sanspo.com/geino/top/gt200703/gt2007032900.html

スポーツ報知

植木等さん失った芸能界 悲しみ一層増す

コメディアンで歌手の植木等さんが呼吸不全のため80歳で亡くなってから一夜明けた28日、芸能界は悲しみに包まれた。植木さんが所属した渡辺プロの後輩・中山秀征(39)は「本当に残念でなりません」とコメント。松本明子(40)ら多くの所属タレントが先輩の死を悼んだ。また、テレビ東京では主演映画の追悼放送も決定。植木さんが在籍した「クレージーキャッツ」の50周年記念ベストアルバムが品切れになるなど、国民的スターの急逝はテレビ、レコード業界にも及んだ。
植木さんを失った悲しみの深さは、悲報から一夜明け、一層増していた。この日、渡辺プロ所属のタレントが追悼コメントを次々に発表。渡辺美佐会長は「お見舞いに参りました時、お元気がなかったのですが、まだまだ先のことと思っておりました。ショックで言葉もありません」。
植木さんと同時代を過ごしたミッキー・カーチス(68)は「クレージーキャッツに入る前からジャズの名プレーヤーとして知っていた。ヒットパレード時代は毎日一緒。音楽と笑いの見本みたいなグループだった」としのんだ。
中山は「自分が新橋演舞場で初座長を務めた際、楽屋ののれんを作っていただいた」。フジテレビ系の正月特番「かくし芸大会」では、審査員を務めた植木さんから「ヒデ、これが本当のかくし芸だよ」と言葉をかけられ「大変勇気づけられました」。クレージーキャッツの曲「信じなさい」をカバーした松本は「松本、頼むよ。がんばれ」と言われ「うれしかった」と、みな一様に大先輩の後輩に対する優しさと愛情が伝わってくるものばかりだった。
テレビ局ではテレビ東京が、植木さんの主演映画の中でも特に人気の高い「日本一のホラ吹き男」(64年公開)を29日・午後9時から、TBSは4月1日に「植木等さん追悼特番」(仮)を同7時から生放送することを決めた。
またクレージーキャッツ結成50周年を記念し、昨年5月に発売されたベスト盤「日本一の無責任大作戦」は品切れ店が相次ぐ状態。発売元の東芝EMIによると、2005年発売の2枚のベスト盤「コンプリートシングルスHONDARA盤」と「HARAHORO盤」と併せ、合計約3000枚の追加注文がくる反響の大きさだ。
50周年ベスト盤は植木さんが選曲に参加し、代表曲「スーダラ節」などを収録した集大成的内容。そのため、新たな追悼盤の発表は「現段階で予定はない」(東芝EMI)としている。
(2007年3月29日06時04分 スポーツ報知)

http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20070329-OHT1T00078.htm
勘三郎、植木さんに「かわいがってもらった」

コメディアンで歌手の植木等さんが呼吸不全のため80歳で亡くなってから一夜明けた28日、芸能界は悲しみに包まれた。
歌舞伎界では中村勘三郎(51)が都内で行われたコクーン歌舞伎三人吉三」(6月7〜28日・渋谷、Bunkamuraシアターコクーン)の製作発表に出席し、植木さんをしのんだ。
幼いころから植木さんの大ファンだった勘三郎。「シャボン玉ホリデー」に2度ゲスト出演したことを明かし「ファンだったから『出たい』って言って出してもらった。『仮名手本忠臣蔵』のパロディーを植木さんとやりました。時限爆弾が爆発して『ハラホロヒレハレ』も一緒にやりました。かわいがってもらった」と振り返った。
一方、NHK朝の連続テレビ小説甘辛しゃん」(97年)で植木さんと共演した俳優・風間杜夫(57)は主演舞台の明治座5月公演・人情喜劇「うそつき弥次郎」(4日〜28日)の成功祈願に出席。
「あのときから具合が悪かったと(新聞で)知ってビックリしました。温かく、明るい人でした。植木さんの功績は大きいです」と俳優の大先輩の思い出を語った。
(2007年3月29日06時04分 スポーツ報知)

http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070329-OHT1T00077.htm
植木さん密葬に谷啓さんら参列

27日に死去したコメディアンで俳優の植木等さんの密葬が29日、谷啓さん、桜井センリさんら「クレージーキャッツ」のメンバーや近親者が出席して東京都内で行われた。
谷さんは葬儀後にコメントを発表。「『植木屋』『谷啓』という呼び合いができなくなって、寂しい。植木屋はすごい人だった。ステージでもカメラの前でも、登場すると周囲がパーッと明るくなった。いい顔をしていた」と植木さんをしのんだ。

http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070329-OHT1T00195.htm

スポーツニッポン

小松政夫無念…「父親を失った気持ち」

呼吸不全のため27日に80歳で亡くなった植木等さんの密葬が28日夕、故人の遺志を尊重してひっそりと都内で営まれた。関係者によれば、谷啓(75)らクレージーキャッツのメンバーやごく親しい仲間が参列。植木さんの付き人から芸能生活をスタートさせた小松政夫(65)はスポニチ本紙の取材に「父親を失った気持ち」と声を詰まらせた。
 父と慕う植木さんの容体急変を小松が知らされたのは27日朝。「タクシーに飛び乗りましたが、5分、6分して悲しい知らせが届きました」と無念さをにじませた。
俳優を目指して福岡から上京したのは1961年。自動車のディーラーを経て、公募で植木さんの付き人になったのはその2年後、21歳の時だった。高度成長期のアンチヒーローとして植木さんがクローズアップされるきっかけとなった映画「ニッポン無責任時代」が封切られた直後。「最初、何と呼んだらいいのか悩みましたが“師匠”“先生”どれもおかしい。すると植木さんが“君は父親を早く亡くしたようだから父と思ってくれ”と言ってくれた。だから、最初からオヤジさんと呼んでいました」と小松は振り返る。
4年間の付き人生活には忘れられない思い出がいっぱい。植木さんの代表的なギャグ「お呼びでない…こりゃまた失礼致しました」を生むきっかけをつくったのも小松だ。日本テレビシャボン玉ホリデー」の生放送中。出番じゃないところでつい勘違いし、控室にいた植木に「オヤジさん、出番です」と伝えてしまった。周囲は慌てたが、機転を利かせた植木さんが口にしたのが「お呼びでない…」だった。独立してからも変わらずかわいがってもらった。76年1月、朋子夫人(59)との結婚式で仲人を務めてくれたのも植木さん夫妻だった。
「実は3月5日くらいに今の付き人さんから“危険な状態”と聞かされていました。僕は名古屋の中日劇場で舞台があった。終わったのが26日。まるで僕が東京に戻ってくるのを待っていてくれたみたいですよ」
安らかに眠る植木さんの頭髪を小松が整えた。「昔からドライヤーで僕がやっていましたからね。ダンディーに頭を整えさせてもらいました。谷啓さんも“決まってるなあ”と思わずうなったほどですよ」と小松は最後の“親孝行”を明かした。
[ 2007年03月29日付 紙面記事 ]

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2007/03/29/01.html
ドリフメンバー植木等さんの死を悼む

クレージーキャッツの弟分だった「ザ・ドリフターズ」のメンバーも敬愛する植木さんの死を悼んだ。加藤茶(64)は「明るい植木さんのイメージしかなく、亡くなるような人ではないと思った。植木さんを見て育ったのでとても残念」。志村けん(57)は「子供のころからあこがれていたので、悲しいの一言」とコメント。高木ブー(74)は「仕事場で出会った時に心温まる言葉を掛けてもらったことが心に残っています」とし、仲本工事(65)は「人を元気づける笑い声が聞けなくなって悲しいです」としのんだ。植木さんはドリフをずっと気に掛け、渡辺プロを独立した時も「才能があるんだから頑張れや」と送り出した。
[ 2007年03月29日付 紙面記事 ]

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2007/03/29/02.html
植木等さん追悼番組 各局で放送検討

植木等さんをしのび、各局で追悼番組が放送される。
NHK教育は4月8日午後3時から「植木等さんをしのんで スーダラ伝説〜植木等・夢を食べつづけた男」を放送すると28日、発表した。植木さんの長時間インタビューを中心に構成され、故青島幸男さん、谷啓(75)らも出演している。05年11月にNHKハイビジョンで放送された。
テレビ東京は29日午後9時から、木曜洋画劇場の特別企画として、植木さんの追悼映画「日本一のホラ吹き男」(監督古沢憲吾)を放送。同映画は64年の作品で、「日本一の男」シリーズ第2作。植木さん演じる三段跳びの選手が東京オリンピック出場を目指していたが、ケガで断念。大企業の社員に転身し、大ボラを吹きながら異例のスピード出世をしていくというストーリー。同局関係者は「大言壮語だが、人情に厚くイキな男を植木さんが演じており、コメディー俳優としての姿をたっぷり堪能できる。傑作の呼び声も高いので追悼作品として選んだ」と説明した。
TBSも4月1日午後7時から2時間枠で「植木等さん追悼番組」(仮)を生放送。また、テレビ朝日でも「徹子の部屋」(月〜金曜後1・20)で植木さんが出演した際のVTRなどを紹介する追悼番組を検討。植木さん主演のドラマなどの再放送も考えているという。
[ 2007年03月29日付 紙面記事 ]

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2007/03/29/05.html

デイリースポーツ

TV全局が続々植木等さん追悼特番

27日に呼吸不全のため80歳で亡くなったクレージーキャッツ植木等さんの追悼番組がテレビ各局で続々と放送されることが28日、決まった。高度経済成長の象徴的存在として、日本の芸能の礎を築いた国民的スター。その悲しみの輪は日本中に広がり、全国からお別れの会を希望する声が寄せられた。
穏やかな笑顔と、実直な性格、軽やかな“芸”でだれからも愛された植木さん。「自分に何かあったら密葬にしてくれ」と昨年11月、登美子夫人と担当マネジャーに遺言を残していた。その遺志を尊重し、マスコミ、ファンには一切通夜、葬儀の日程、場所などは公表しない形で営まれるが、テレビの画面でお別れを告げることになる。
悲報から一夜明けたこの日、テレビ各局は急きょ追悼番組を決定した。NHKでは4月8日の午後3時から教育テレビで05年にハイビジョンで放送した「スーダラ伝説〜植木等・夢を食べつづけた男」を追悼放送することを決定。テレビ東京・大阪系でも29日午後9時から「木曜映画劇場」の枠で植木さんの主演映画「日本一のホラ吹き男」(1964年)を放映。テレビ朝日・ABC系では近日中に「徹子の部屋」での追悼特集を予定している。TBS・毎日系でも4月1日午後7時から2時間生放送で追悼番組の放送が決まった。
フジテレビも追悼番組を検討しており、テレビ全局が偉大なスターの死を悼む。
また関係者によるとこの日夜にも親族、親しい関係者らだけでしめやかに通夜が営まれた模様だが、俳優仲間やファンから「ちゃんとお別れが言いたい」との声が多数寄せられており、改めて所属事務所ではお別れ会、偲(しの)ぶ会の検討に入った。

http://www.daily.co.jp/gossip/2007/03/28/0000284385.shtml

日刊スポーツ

小松政夫「植木さん寝てるみたいだった」

呼吸不全のため80歳で亡くなった俳優、植木等さんの通夜が28日夜、親しい関係者のみが参列して行われた。参列した元付き人で俳優小松政夫(65)は、3月に再入院してからの呼吸さえままならなかった闘病中の植木さんの様子を明かした。最期はみとれなかったが、穏やかに寝てるようだったという。
植木さんは呼吸困難に耐えながら、延命治療拒否の道を選んでいた。
3月上旬、小松は現在の植木さんの付き人から再入院の連絡を受けた。それによると、苦しそうに呼吸する植木さんは水の中でアップアップして、おぼれているような感じだったという。
小松は2月末から名古屋で長期公演のため、1月下旬、自宅の植木さんを見舞った。普段は2〜3時間話すのが恒例だったが、その日は玄関で迎える姿も腰が曲がり疲れた様子だった。「すぐに遠慮して帰ったんですよ」。それが、最後になった。
植木さんを最も間近で観察した小松はその生きざまを「芸人ではない、職人だった」と振り返った。コメディアンとして、俳優としての才能はもちろん、歌手としても声楽家にしっかり学んだプロだったという。
多忙だった全盛期、移動車中に初めて譜面を手にし、30分ほど鼻歌で練習したままレコーディングに臨むことも多々あった。「声の出し方も違いますから。鼻歌だけで、本番もとりあげてしまうんですから。確かな腕を持った職人でした」。師弟関係においても怒鳴ることは1度もなかった。弟子を1人の人間として扱った。
植木さんは、小松の名古屋公演が千秋楽を迎えた翌日、今月27日に亡くなった。「4〜5分の差で間に合わなかったんですが、それでも、僕を待っててくれたんだと思う。今は…あのスーパーマンがたくさん病気して、苦しんでね。ゆっくりしてくださいと…言ってあげたいですね」と話した。付き人時代から40年。「親と同じですから」という小松の声は疲れ切っていた。悲しみは深かった。
[2007年3月29日8時49分 紙面から]

http://www.nikkansports.com/entertainment/p-et-tp0-20070329-176579.html

読売新聞

3月29日付・編集手帳

雑誌「暮しの手帖」にそのアンケート結果が載ったのは1962年(昭和37年)の12月である。全国の小学6年生、1500人に「将来、就きたい職業」を聞いた◆男子の第1位はプロ野球選手でも、パイロットでもなく、「サラリーマン」だった。映画の影響も多少はあったかも知れない。この年の夏、植木等さん主演の「ニッポン無責任時代」が封切られている◆誇張して描かれた「気楽な稼業」ぶりもさることながら、はじけるような高度成長期の空気を体現した植木さんの野放図な明るさと、身にまとう都会の香りは子供たちの目にまぶしく映ったことだろう◆“無責任男”で一世を風靡(ふうび)し、「スーダラ節」が売れに売れても、まじめ一徹の人は役柄と自身の落差に戸惑ってもいたらしい。同じコメディアン、渥美清さんの映画「拝啓天皇陛下様」を見た植木さんの感想を、作家の小林信彦さんが著書に書き留めている◆「渥美ちゃんのは芸術ですよ。ぼくの映画はマンガですね」(新潮文庫「日本の喜劇人」)。そのマンガの中で出会う笑顔に、生きることに追われた当時の人々がどれほど励まされ、慰められたことか◆アンケートの小学生も、定年のゴールが見えてくる年ごろだろう。植木さんが80歳で逝った。子供たちに与えた夢の行く末を、あらかた見届けたかのように。
(2007年3月29日1時42分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070328ig15.htm

夕刊フジ

植木裕子さん、父・等さんDNAドイツバレエ界で開花

27日に死去したコメディアンで俳優の植木等さん(享年80)。その“至芸”のDNAは、ドイツのカールスルーエ州立劇場バレエ団で、国際的バレリーナとして活躍する末娘の植木裕子さんにも引き継がれていた。
2004年3月、植木さんが、うれしそうに娘を語ったときの様子をジャーナリストの小張アキコさんが明かす。
日本映画批評家大賞授賞式で、『裕子ちゃん、戻っているんですか』とお聞きしたところ、『帰ってきているんですよ』と言われました。バレエシーズンは真っ盛りの時期でしたが、裕子さんは闘病中の父親が心配だったようです」
9歳からバレエを始めた裕子さん。きっかけは、父の影響で興味を持ったミュージカルだった。踊りを覚えようと教室を探すと、近所にあったのがバレエ教室だった。
人気絶頂だった父だが、多忙なスケジュールの合間をぬって裕子さんの発表会に足を運び喜んでいたという。
高校卒業後は、フランスのカンヌやオーストリアザルツブルグなど音楽の本場で修行を積み、現在はドイツを拠点に活躍する。
「日本に帰ってくると、父娘がそろって、東京・青山劇場でバレエ鑑賞をする様子などが見られ、恋人同士のようだった」(音楽関係者)とも。
先の小張さんが言う。
「裕子さんは米国人バレエダンサーと国際結婚して、授かった男の子に父と同じ“ひとし”と名付けたと聞いています。よほどお父様が好きだったんでしょうね」
世代を超えて“植木等”が引き継がれてゆく−。
ZAKZAK 2007/03/29

http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_03/g2007032916.html