Wikipediaの「新井素子」の項目に本日書き加えられた一文。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%95%E7%B4%A0%E5%AD%90のページより。

中編デビュー作の「大きな壁の内と外」をはじめ、主に希少生物の保護を訴える環境保護テーマの作品を多数発表している。

どこをどう読めばそう思えるのかが不思議だ。環境保護がテーマになっている作品なんてあったか? 「大きな壁の中と外」*1てそもそも環境保護がテーマじゃないし。『緑幻想』のことを言っているのかなあ。でも、あの中では環境保護なんていう人類のエゴなんかじゃなくてもっと大きなことが描かれていた。だいたい、かねてより新井素子さんは「人類も環境の一部」と言っておられるのであるが。
この一文はそのまま削除した方がいいと思われ。

2008/11/02追記

新井素子さんの自然観が語られているインタビューがあるのでその部分を転載する。『エキスパートナース』1987年6月号より。

将来自分の子供たちのことを考えて、自然破壊問題だの公害問題だのに興味があるかって聞かれれば、私自身は、今のところ、そういうのにとりくむ気は、正直いってないです。それにだいたい、自然破壊がどうのこうの、と言っても、人間も一応自然なんですよね。だから、人間が自然を破壊して云々とか言われるけれど、人間って自然を破壊できるほど偉いもんなのかな、と思っちゃう。
例えば、植物は、人間がやった自然破壊などと比べ物にならないほど巨大なことをやっていますからね。何と言っても、大気の中に酸素を勝手に作っちゃったわけです、あの連中は。酸素を作ったことによって、あと動物の上陸とかいうことを可能にしたわけなんで、長い目で見るとわからないですよね。
この先、人間が公害などを進めていったとして、公害状態でないと生き残れない生物が出てきて、それが繁殖した場合、人間は環境破壊したんじゃなくて、環境整備したんだという話になっちゃうと思いません?
だから、大きい自然というものを考えたとき、人間もその一部だと思うのですよね。

だいたい、早い話が、今、どんなに自然保護しようが、何しようが、地球自体、長いタイム・スケールで見れば滅んじゃうんですよね。太陽が赤色巨星にでもなれば、火星に行こうが、月に行こうが、近世に行こうが、一緒におしゃかになってしまうんですから。

これが1987年当時の新井素子さんの自然観である。

*1:引用文中に書いてある「大きな壁のと外」は初出時のタイトルである。しかしこれは『奇想天外』の編集者に新井素子さんが電話でタイトルを告げた際に編集者が誤解してこうなったもので、正式には奇想天外社版『あたしの中の……』に収録された時に改められた「大きな壁のと外」が正しい。こちらのページを参照のこと。→http://motoken.na.coocan.jp/works/magazine/kiso/kiso7809.html