id:rocker氏の「淡い青色の日々」7月16日の日記より。
星新一が解説で「新鮮」と記した文章にしても、大塚英志が「キャラクター小説」の起源として位置づけることにしても、ぼくには(仕方がないこととは言え)さっぱり「新しさ」がわかりません。
僕は新井素子の小説を初めて読んだのは20年以上前になりますが、その文体が他の小説と違うということを意識したことはありませんでした。(読んだのが知識のない子供の時だったとか、そもそも読書量が少ないとかが理由かと思います)しかし、新井素子の登場はある意味で文学史上のエポックとして捉えられることもあるようです。新井素子の文章に当時の人がどういう反応をしたかが、こちらを読んで頂くと判るかと思います。参考までに。
- 【「奇想天外SF新人賞」選考過程】http://motoken.na.coocan.jp/profile/senko1.html(削除済み)
- 【「奇想天外SF新人賞」最終選考】http://motoken.na.coocan.jp/profile/senko2.html(削除済み)
それにしても「あたしの中の……」「大きな壁の中と外」「チューリップさん物語」と収録された4作中3作までが文明批判・人類という種の批判になっているのはどうしてでしょう?
新井素子の初期作品に人類批判の色が濃いのは、平井和正の影響だとご本人が何かのインタビューで仰っていた記憶があります。平井和正はご存じでしょうか。新井素子より前に「キャラクター小説」(「ライトノベル」と言った方がいいのか?)の元祖のような小説を書いていた作家です*1。彼は昔、「人類ダメ小説」と自称する、人間のダメさ加減への怨念が行間から溢れ出てくる強烈な作品群を発表していました。「ウルフガイ・シリーズ」がその代表格です。新井素子は平井和正の大ファンだったので、その影響をもろに受けていたらしいのです。(関連記事→新井素子さんの初恋とは。 - 雑録)
この影響がどのくらいまで残っていたかは、検証していないので今のところ詳しくは判りません。研究課題と考えております。