講談社一族としての新井家。

人と作品シリーズ25『萩原朔太郎』という本を読んだ。これを読むまで知らなかったのだが、萩原朔太郎山村暮鳥、『グリーン・レクイエム』に登場するこの二人の詩人は両者とも群馬県出身なのである。奇遇なことに新井素子さんのお祖父様たちは父方も母方も群馬県出身である。また講談社の創業者である野間清治群馬県出身なのだった。
で、講談社の話である。お祖父様たちは両名とも講談社に勤めておられた。更に御尊父、御母堂とも講談社社員として勤め上げた人物である。娘は作家となり講談社から本を出している。ここまで講談社と関わりの深い一家というのも珍しいんでないかい。ちょいとそのルーツに興味が湧いたので、『小松左京マガジン』第17号の「新井壽江インタビュー 大衆出版文化の担い手 講談社一族として40年」を読み返したついでに、御母堂の話の中からそれぞれの講談社との関わりを拾ってみた。

祖父(父方)

新井武助
群馬師範学校卒業。小学校教諭を何年か務めた後に講談社入社。新井素子さんの御尊父が四、五歳の頃、一家で東京に引っ越してきたらしい。講談社では長く校閲部長を務め、人事課長も務めた。

祖父(母方)

中里辰男
明治37年(1904年)生まれ。
二十歳くらいまで実家の農業を手伝っていたが、尋常高等小学校の同級生だった小保方宇三郎*1に誘われ講談社の少年部に入る。『婦人倶楽部』、『キング』と編集畑を歩み、最後はその長で定年を迎えた。

新井享
昭和23年(1948年)東京大学農学部農芸化学科卒業*2。書籍(編纂もの)一筋。若い頃は文芸局*3や児童局に勤務。後、学芸局、学術局などで、『世界の文化地理』『講談社大百科事典』『医科学大事典』などを担当。担当部長だった。

新井壽江(旧姓:中里)
昭和5年(1930年)生まれ。昭和24年(1949年)東京家政専門学校*4卒業、講談社入社。校閲部に5年勤務した後『婦人倶楽部』に配転。婦人倶楽部編集部、家庭図書出版部と実用書の編集部に勤め、五十代近くになりまた校閲部に戻った。講談社労組の執行委員(婦人部長)としては、労働協約書に「妊娠休暇」の文字を入れさせることに成功した。ご主人とは入社してすぐの研修期間中に隣り合わせになったのが縁で、昭和27年(1952年)11月24日に結婚。昭和35年(1960年)8月8日に新井素子さんが誕生する。

*1:元光文社社長、元講談社副社長。2005年3月9日、老衰のために逝去。

*2:東大では星新一の同期であった。星新一による『あたしの中の……』奇想天外社版の解説によると、1977年当時は教育出版局の理科部門にお勤めだったようである。この解説にはまた、父方の祖父(新井武助氏)が講談社の図書館長であったとも書かれている。

*3:在籍は短かったらしいが、この時山田風太郎を担当している。それが自慢だと新井素子さんが『柳生忍法帖』下巻(講談社ノベルススペシャル)の巻末エッセイに書いている。P.10には山田風太郎と一緒に撮った写真(昭和30年)が掲載されている。

*4:東京家政学院大学の前身。現在ある同名の学校とは別。