吉本隆明『現在はどこにあるか』。

11月17日の日記(id:akapon:20051117#p1)の続きである。一応読了した。しかし全然読めていない。「欧文脈」「和文脈」って何だ。他にも知らない術語が頻繁に出てくる。これらを理解するための素養が俺にはない。
本の内容は「一九一七年にはじまった物語が、いま終わろうとして、また別の物語がはじまろうとしている」*1と著者が認識している時代を迎え、そこに浮かび上がる「現在」を文学作品がどのように捉えているのかを探ろうとする試みであるようである。簡単に言えば読書感想文だ。吉本隆明自身やその思想的立場に関心がある人はここから様々なものを読み取ることができるのだろう。
第4章「マス・カルチャーからの認識」で、新井満「尋ね人の時間」、伊集院静受け月」と並んで新井素子さんの「おしまいの日」が取り上げられている。「マス・カルチャー」という言葉の意味はそのまんま「大衆文化」と理解すればいいのだろうか。「マス・カルチャーを支えている」人たちの感性を「いちばん鋭敏に正確に感受したり、放出したりしているにちがいない」との期待を持って読んだ新井満伊集院静の小説に、しかし著者は失望する。その次に登場するのが新井素子さんの「おしまいの日」である。

わたしの読みえた範囲で言えば、新井素子の『おしまいの日』だけが、マス・カルチャーの視点で、マスの日常生活の実感と危機を真正面から描いていた。現在のマスが持っている実感の世界は、この作品を最大の達成とみるほかないとおもえる。

吉本隆明は主人公の夫妻が置かれた状況に着目する。夫は仕事に忙殺され妻はその状況に寂しさを感じつつ自分たちの未来に繋がると信じて耐えているという生活を、

たぶん九割のマスの大衆がそんなふうに日々進行しているにちがいない。

と認識し、その物語を三種の文体を駆使しながらぶれなく描く手法や、平凡な家庭が少しずつ少しずつ崩壊していく過程を確かな視点から納得が行くように書くストーリー・テリングを褒めている。
新井素子ファンとしては、ともすれば作中に現れる狂気について新井素子さん固有の作風であるという前提から極めて限定された範囲にしか適用され得ないものとして捉えてしまいがちになるのだが、この作風から「マス」を読み取る吉本隆明の視点は新鮮であった。

*1:註を付けるのも野暮だが、「一九一七年に始まった物語」とは1917年のロシア革命によって世界初の社会主義国家・ソビエト社会主義共和国連邦が誕生して以降の世界情勢のことを指している。この文章が書かれたのは1991年にソ連が崩壊したその後である。